「田中角栄は死なず」。これは筆者が40年前の1976年11月に出版した書籍のタイトルだ。田中角栄元首相は同年7月に東京地検特捜部に逮捕され、8月には受託収賄と外為法違反の疑いで起訴された。「黒い政治家」として世間の袋叩きにあっている時期だった。
しかし、12月の総選挙では、自民党は敗北したが、田中元首相は16万8千余票で堂々のトップ当選。以後の選挙でも、元首相は病気で倒れるまでトップ当選を譲ることはなかった。なぜなのか。
筆者はその前の2年間、元首相の金城湯池の選挙区新潟3区に住んで取材した結果が、著書のタイトルだった。30万部売れた。本の最後はこう締めくくった。
≪かつて中央権力に立ち向かった義賊として、中央官僚の批判として、「田中角栄」の幻想は生き続けるだろう≫
あれから40年。2016年は、テレビや雑誌で田中角栄元首相に関する多くの特集が組まれた。書籍では、石原慎太郎氏らの著書がベストセラーとなり、他にも多くの角栄本が出版され、角栄神話は復活した感がある。共通しているのは、今の政治家に比べて、「情がある」「面倒見が良い」「弱い者の味方」「決める政治家」である。いまの政治、社会への不満を表わしている。
元首相は日本海側(裏日本と呼ばれた)の権利を主張していた。陽の当たらない新潟の山村に予算をぶんどってくる。それこそが政治ではないか、何が悪いのだと叫んでいた。上越新幹線を新潟に延ばし、関越自動車道を走らせ、道路建設、圃場整備、河川改修などに多くの予算をつけた。
越山会査定という仕組みがあった。元首相の後援会「越山会」が選挙区内の補助金予算を調整、元首相を通じて中央官庁に出す。調整役は、越山会の国家老と呼ばれる本間幸一氏だった。選挙民が決めた予算を役所に実現させる。本来役所が公正に仕切るべきところだが、元首相の力で驚くべき慣習が続いていた。選挙民はその代りに元首相へ票を出した。票はその数量でなく、地域が元首相へ出した票の比率が評価された。小さな村でも、田中票比率が高い地域は優遇された。面白い民主主義である。
多くの都市伝説も生んだ。東京・神楽坂は午前中が下り、午後が上りの一方通行となっている。「これは元首相が神楽坂の家に通うために公安委員会が規制をした」。これを一笑に付したのは神楽坂に住む元首相の長男。「誰が作った話ですかねえ」。
しかし、彼が話してくれた次の話は本当かもしれない。
1966年、ビートルズが来日した。ある日、角栄氏は長男にビートルズを知っているかと聞いた。音楽関係の仕事をしていた長男の得意分野だった。どんな曲か聞かせろ、という。長男はイエスタデイを選んで聞かせた。「おう、いいじゃないか」と父は言った。間もなくビートルズのビザは発行されることになったと長男は言う。いろいろの曲の中で、父が好きそうなのを選んだのだという。父は当時、自民党幹事長だった。
政治資金の公私混同は、現在の比ではなかった。ロッキード事件は表面化したが元首相には危ない話がたくさんあった。立花隆氏が追及した信濃川河川敷問題はその典型的な事例である。
近年と言ってもちょっと古いが、原発用地がらみの裏献金疑惑。2007年12月に新潟日報が「柏崎原発用地の売却益 4億円田中元首相邸へ 総裁選前年 闇献金流用か」という特ダネを掲載している。国家老本間幸一氏が日報記者に明かしたとある。
40年前、闇献金、裏金、政治資金の公私混同のネタは尽きないほどあったが、これは現在もなくなっていない。舛添要一氏の公私混同なんて、みみっちいものである。
しかし、40年の間に大きく変わったものがある。経済環境だ。角栄の時代は高度成長の絶頂期、人口も増え、経済も成長していた。今は低成長の時代である。元首相の気前のよい話はもうなくなった。「田中角栄は死なず」という幻想だけが残って徘徊している。
J-CASTニュース発行人 蜷川真夫