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文才豊かな勝負師だった 異端児・豊田泰光の死去

   伝説の野武士軍団、西鉄ライオンズを引っ張った豊田泰光さんが2016年8月14日、肺炎で亡くなった。

   豪快でありながら文才豊かな異端児。また昭和が消えた。

  • 西鉄ライオンズ時代の豊田さん(画像はWikimedia Commonsより)
    西鉄ライオンズ時代の豊田さん(画像はWikimedia Commonsより)
  • 西鉄ライオンズ時代の豊田さん(画像はWikimedia Commonsより)

高校時代は甲子園の開会式で宣誓

   亡くなったのは夏の高校野球の真最中。豊田さんは1952年の第34回大会に名門水戸商の主将として甲子園に出場、開会式で選手宣誓をしている。

「われわれ選手一同は正々堂々と戦うことを誓います」

   今と違って敢闘を表現する紋切り型だったが、力強い言葉が場内に流れた。豊田さんは3番・遊撃手で1回戦は勝ったものの、2回戦で敗れた。

   卒業後は高校の先輩が監督だった立大に進学する予定だった。ところが西鉄の三原脩監督に口説かれてプロ入りした。

「高校生とは思えないふてぶてしさと豪快なスイングはプロ向き」

   魔術師三原にそう言われて進路変更となった。このころは自由競争時代で、新人選手の獲得は様々な手段が使われた。契約条件も含め荒っぽい時代だった。

   今にして思うのだが、豊田さんが立大に進んでいたら、長嶋茂雄(巨人)と三遊間を組むことになる。村山実(阪神)の入学の可能性もあった。村山はセレクションに落ちたとされている。以来、東京を生涯のライバルとした。

   豊田さんは西鉄に入団した53年に新人王。27本塁打を放ち、当時としては驚異的な新人と大評判になった。高校卒の新人本塁打は清原和博(西武時代)に破られるまで記録だった。

野球殿堂入りの理由は「優れた野球評論」

   三原さんに言わせると、豊田さんは「打撃はいいが、守備はからっきしダメ」だった。平気でトンネルした。エースだった稲尾和久が「トヨさん、お願いしますよ」と言うと、逆に「オレのところへ打たすお前が悪い」。野武士軍団の象徴と言われた男の真骨頂を示すエピソードである。

   荒法師の別名を持つ力まかせの選手かというとそうではなかった。チームプレーを常に考える脇役もこなした。球史に残る日本シリーズで巨人を3年連続でたたいたとき、勝負どころで自ら送りバントを選択してチームを勝利に導いたときは、三原監督をうならせた。

   こんな豊田さんの意外な才能は現役を退いて評論家一筋になってから発揮された。自らペンを取って活字の世界で活躍したのである。

「優れた野球評論」

   2006年に野球殿堂入りしたときの理由の一つだった。新聞に連載した評論が高く評価された。プロ野球OBでは珍しい存在だった。

   不思議なことがあって、一度も監督をしていないのだ。1972年に近鉄のコーチになったときは次期監督の路線だったといわれたが、1シーズンだけで退団した。指揮を執っていたら、きっと「絵になる監督」だったろうし、長嶋巨人との対戦は話題となったと思う。

   (敬称略 スポーツジャーナリスト・菅谷 齊)