写真はただの丘にあらず、テルという古代都市遺跡。なかでもここ、パレスチナのテル・エル・ヘシは典型的な姿を残し、考古学者のペトリー(ここをクリック)が、1890年に聖地における初の科学的な発掘調査を行った場所です。 いったい、どんな街だったのでしょう。
写真はただの丘にあらず、テルという古代都市遺跡。なかでもここ、パレスチナのテル・エル・ヘシは典型的な姿を残し、考古学者のペトリー(ここをクリック)が、1890年に聖地における初の科学的な発掘調査を行った場所です。 いったい、どんな街だったのでしょう。
ペトリ―は、エジプトとパレスチナの発掘調査で活躍しました。 8歳のとき自宅でフランス語、ラテン語、ギリシャ語を教えられ、その後独学で学んでいます。 テル・エル・ヘシでの科学的な発掘調査から、パレスチナ考古学の父と称され、1926年以後はパレスチナを中心に調査を行い、1933年にエルサレムに定住。 彼は、ひとつの遺跡で遺物を年代順に並べる技法を初めて提唱し、その綿密な研究手法は、考古学の新たなスタンダードを生み出しました。
テルは、古い都市の上に、新しい都市が順番に積み重なってできています。真ん中から切ったイメージがこれ。5つの街の址(あと)が、階層になって見えますね。でもなぜ、当時の人たちは、丘ができるまで同じところに都市を積み重ねていったのでしょう?
当時の都市づくりには、次の条件があったからです。
水源がある
肥沃な土地がある
交通の要所である
しっかりした地盤である
当時、南レヴァントでアーバンライフをおくる人々には、遊牧民や他民族に攻撃されるリスクがありました。だから街は城壁の中。
城壁は岩盤の上に基礎を石材でがっちり造り、上にレンガを積みあげました。
街がゴーストタウンになると…レンガは土に帰り、強固な基礎とガレキ(生活用具や住居の廃材)が残ります。新たな住人は、石の基礎を岩盤代わりに城壁を築き、足下をガレキで埋めて平らにならし、漆喰(しっくい)で塗り固めます。この繰り返しで街は徐々に高く、見晴らしがよく、防御機能もアップ。貯水槽も深くなっていくのでした。
こうしてできたテルは、考古学の宝の山。そこで、発掘、となりますが…
19世紀、テルの調査が始まった当初は、クリスマスケーキを丸ごと上から、イチゴ→クリーム→スポンジ…と食べ進むように、都市の層をはぎ取っていくような発掘をしていました。
● この方法の長所:1つの時代ごとに、都市の全体が明らかになる。
▲ 短所:下の層を掘るたびに上の層をすべて破壊してしまう。発掘費用と労力が膨大。
ここからの眺めを見る
20世紀に考え出されたのが、グリッド法。ウィーラー・ケニヨン(ここをクリック)法とも呼ばれます。テルの一部に調査地区を設け、縦に発掘・調査します。クリスマスケーキの一切れをていねいに調べる感じです。
● 長所:テルの大部分を将来の研究のために保存できる。発掘費用と労力を節約できる。
▲ 短所:遺跡の全容が把握しにくい。
ケニヨンは、エリコやエルサレムの発掘者として有名です。
ペトリーが考えた、層位学と型式学に基づいた発掘・調査方法をさらに改良して、師のウィーラーとともに、垂直方向の発掘方法・グリッド法を開発しました。
パレスチナをフィールドとして開発されたこの方法は、近代的な考古学調査の方法の基礎となり、世界中に広がります。
彼女は1962年に、オクスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジの「カレッジ長」に任命されました。
およそ5m×5mの格子状の調査区・グリッドを縦に掘ると、テルの中の平面状況(プラン)と、垂直情報(セクション)が明らかになります。
この両方を調べることが、発掘の基本です。
グリッドをじっくり味わって、テル全体を見通していく方法です。
ラキシュ遺跡を上から見たイメージです。
このように、グリッドとグリッドの間に、ボークという部分を残します。こうすることで、黄色で示したような壁面が地下にでき、垂直情報のセクションを観察することができるのです。
ボークは崩れやすいので写真のように土嚢を並べて保護することもあります。
テルの中に隠れている都市の、
・時代
・範囲
を正しくとらえるには、①②の双方に設けたグリッドを掘ります。範囲は都市面積を知る手がかりとなり、面積は当時の人口を推定するヒントになります。
最近は空中写真も動員し、効果的な発掘方法が開発されています。
「遺構」は、城壁や建物の跡。壁など形が残るものと、中庭のように何もないが意味を持つものがあります。「遺物」は、土器や金属器などの残された道具。花粉や木材の自然遺物もあります。遺物のなかでも土器は、時代によって形が変化しやすいものです。私たちは、そこに時代や地域の特性を探すことができます。
☞ 考古学、日本ではどうなのか?(ここをクリック)
彼は1913年にヨーロッパへ留学し、ロンドン大学でペトリーから考古学を学びました。
ここで学んだ方法を京都大学に持ち帰り、日本に近代考古学の礎(いしずえ)を築きます。
その後、日本の考古学は、木材建築物に合わせて緻密さをより求める手法へと独自の進歩を遂げてゆきます。
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