カトパン・ダルビッシュ「蟹料理デート」煮え切らない彼に「もっとハッキリしてほしい」
佐村河内守騒動「私たちも騙されていた」でいいのかメディア!片棒担いだ加害者のはず
週刊文春がスクープした佐村河内守氏のゴーストライター問題は、まだまだ収まる気配を見せない。佐村河内氏が自筆の謝罪文を発表したが、その中で聴覚障害2級の障害者手帳を取得したのは事実だが、3年ほど前から「耳元で、はっきり、ゆっくりしゃべってもらうと、こもってゆがむ感じはありますが言葉が聞き取れる時もある」と書いたことで、やはり全聾というのも「ウソ」だったのかという疑惑も拡がっている。
今週は週刊文春ではなく、『週刊新潮』お得意の「人の行く裏に道あり」路線の記事を紹介しよう。週刊新潮は<佐村河内氏の仮面を剥いだ週刊文春の記事が、雑誌ジャーナリズムの王道を行く見事なスクープだったこと間違いない>と持ち上げながら、こう書いている。<今回の騒動も、政治家や芸能人の本をゴーストライターが執筆することと、「構図」としては何ら変わるところがない>
昔から芸術の世界では「代作」が行われてきたのだと作曲家の青島広志氏がこう語る。<「例えば、ドイツの作曲家メンデルスゾーンの曲の1部は、ファニーという名の彼の姉が書いたものだと言われています。マーラーという有名な作曲家も、奥さんのアルマに多くの曲を書かせていたと言われている。で、奥さんが自分の名も楽譜に載せて欲しいとお願いしたら、『誰が代表するかが重要なのであって、誰が書いたのかは重要ではない』と言ったという逸話も残っています」>
また、美術評論家の藤田一人氏は画の世界でもこうだと話している。<「近世は画家が描きたいものを決めるのではなく、金持ちのパトロンからの注文にいかに応えるかが肝でした。この時代は主張や構想や制作過程が評価対象になるわけではないので、工房制作が多かったのです。
『自分で作らず弟子に作らせている』との批判が出始めるのは、画家の感性を重視する近代以降です。近代に入ると、モネ、ルノワール、ピカソなどが登場し、自らの感情や思想を表現するのが芸術、と言われるようになった。そのため、制作過程に他人が介在していることが分かると、観る人は『オリジナルではない』と嫌気がするのです」>
佐村河内氏の場合、音符すら書けなかったというのだから、メンデルスゾーンやマーラーと比較するのはどうかと思うが、藤田氏のこういう見方は的を射ているのではないか。<「彼の場合、全聾という苦難などの『物語』を含めて人は魅了されていったわけで、共同制作では受け入れられないという頭が最初からあったはず。で、自分の中で全てを完結させるために、頭を壁に打ちつけ、深夜の公園で長時間苦悩する、といった過剰演出に走ったのでしょう」>
週刊新潮は結びで<自分がその曲を良いと思えば、作者が誰であろうと関係ないのだ>と書いている。その通りではあるが、私には別の違和感がある。この報道が出てから、各メディアは私たちも騙されていたと大騒ぎになった。もちろん、『全聾の作曲家』だと偽っていた佐村河内氏に非はあるが、それを増幅して感動物語に仕立て上げ、視聴率を稼ぎ、本やCDを売りまくった側にほとんど反省もないのはおかしいではないか。
それとも、われわれはあいつに騙された被害者だとでもいうつもりなのか。中でもメディアはペテンの片棒を担いだ立派な加害者である。週刊文春は佐村河内氏の虚像を拡大した『魂の旋律~音を失った作曲家』(NHKスペシャル)を制作したNHK側に取材を申し込んでいるが、調査中だとして答えないという。
メディアは何度も過ちを犯すものだ。だから、自分たちが間違ったとわかったときは、視聴者や読者、CDを買った人たちに謝るのがスジではないか。佐村河内氏に損害賠償をという声が出版社やレコード会社にあるというが、それこそ自分たちの見る目のなさを公表する「恥の上塗り」である。やめたほうがいい。