ジャーナリストの後藤健二さんが「イスラム国」に殺害されて1か月になる。紛争地 での危険察知はさらに難しくなった。長年、報道や人道支援に携わってきた人々は「いま自分たちに何ができるのか」と自問している。
ビデオジャーナリストの草分けで、30年以上も紛争地を取材した野中章弘・早稲田大大学院教授は、後藤さんの活動に対する海外の評価の高さに注目している。「国家からではなく、現地の人々からの目線が再認識されている」という。
2003年にバグダッドでフセイン政権の崩壊を伝えたジャーナリストの綿井健陽さんはこの1か月、自分の仕事を見つめ直してきた。常に臆病であるよう心がけてきた。それが危険を避ける最良の方法だった。
「ところが、最近は日本人ジャーナリストの見られ方が厳しくなった。今までと違う戦慄、恐怖というか・・・。しかし、行かないと何が起っているかわからない」
03年4月、空爆で3人の子どもを失って泣き叫ぶアリ・サクバンさん(当時31)を取材した。以来、何度もイラクに出かけ、アリさんと家族を記録し続けたが、2年前にアリさんが銃撃で死んだことを知らされた。
亡くなった後藤さんはイラクで白血病の女性と家族を追っていた。NGO「日本イラク医療支援ネットワーク」の事務局長・佐藤真紀さんも一緒だった。イラク、ヨルダンでがん患者5万人を支援してきた。
後藤さんは目を失った11歳の少女が亡くなるまで4年間寄り添った。少女は「私は死にます。でも幸せ。私を愛してくれたから。私を忘れないで」と言葉を残した。
おととし1年間で援助関係者の死亡は155人に上った。しかし、難民は急増している。支援をどう維持するか。難しい選択を強いられる。現地と話し合うため、佐藤さんは先週イラクに行った。「傷ついた世界のために何ができるか」。少女のメッセージが絶えず甦るという。
佐藤和孝さんは3年前にシリアで、パートナーの山本美香さんを銃撃で失った。紛争下で苦しむ子どもなど弱者に寄り添うジャーナリストだった。佐藤さんは山本さんの名前を冠したジャーナリスト養成講座を始めている。「彼女の思いをつないでいきたい。ひとつは償い。ひとつは殺した人間への弔い合戦」という。しかし、経済的に不安定で、危険の多い仕事に志望者は減っている。
橋田幸子さんは夫の信介さんを武装勢力に殺された。04年のイラク戦争後の混乱時だ。信介さんは視力を失ったイラクの少年を日本で治療させたいと考えていた。幸子さんはこれを引き継ぎ、寄付を募って基金を設立した。イラクに病院まで建設した。そこはいまイスラム国の支配下にある。幸子さんは「許す気持ちは攻撃するより難しい」と話す。
立教大学教授で「NPO難民を助ける会」理事長の長有紀枝さんは「現地での安全策はいろいろあるが、敵の側に外から人が入ってくると崩れてしまう」と中東の現状をいう。日本へ向けられる目の変化も感じる。旧ユーゴのボスニアでは日の丸を掲げて仕事をした。「当時、日の丸は中立・安全の象徴だった。いま日本国旗では身を守れない」
ジャーナリストとは持ちつ持たれつ。「日本人の目を海外に向けさせるには、人情を人権にかえる仕掛けが必要です。それが報道なのです」「こういうときだからこそ、日本人の心を内向きにしてはいけない」と語る。
その手だては報道というように聞こえた。現地のナマの報道はたしかに力があろう。だが、命をかけるほどの価値があるとは思わない。情報機器が発達したいま、情報をとる次善、三善の方策はある。むしろ、絶対に現地にいないといけない支援関係者の先行きが心配だ。日の丸が安全でなくなったのは、安倍首相の不用意なカイロ発言からだ。こればかりはもう元へは戻らない。
ヤンヤン
*NHKクローズアップ現代(2013年2月26日放送「いま『世界』のためにできること 紛争地 それぞれの眼差し」)