昨年(2015年)9月、『伝説の女優』原節子が95歳で亡くなった。伝説と言われたのはその美貌もあるが、100本余りの映画に出演した後、絶頂期ともいえる42歳で突如銀幕から消えてしまったからだ。「クローズアップ現代」は原節子が活躍した時代と戦争との関わりについてスポットライトを当てた。
デビュー間もない原が、1937年の日独合作映画「美しき土」に出演しているのはよく知られた話だ。当時のドイツはヒトラーのドイツである。その4年後、日本は太平洋戦争に突き進んでいった。「指導物語」(1941年公開)の原の姿を胸に戦地に赴いた兵士は少なくない。
番組に出演したある男性(94歳)はこう話す。「究極は死ぬんだろうと思って、覚悟で戦場に行くわけです。そのなかで原節子が出てくるとホッとするんだよね」。原は「銃後を守る女性」の象徴として描かれた。どのような思いで出演していたのか、言葉はほとんど残されていない。
敗戦後、原は再び時代を体現していく。新しい時代の女性を演じ、戦後の象徴になっていったのだ。出演作の「お嬢さん乾杯」(1949年)、「青い山脈」(1949年)、「晩春」(1949年)、「麦秋」(1951年)などは、平和で穏やかな庶民の暮しを描いたものだった。
出演作のなかでも話題になったのは小津安二郎監督の「東京物語」(1953年公開)である。今でも評価は高く、2012年に世界で最も権威があるとされるイギリスの映画専門誌が行った映画監督へのアンケートで、「2001年 宇宙の旅」「市民ケーン」などを押しのけ1位に選ばれた。
舞台は敗戦から8年たった東京で、尾道で暮らす年老いた両親が子供たちを訪ねて上京する物語だ。文芸評論家の末延芳晴氏はこの映画の終盤、原節子が演じる紀子と戦死した夫の父親とのシーンのこんなセリフに注目している。
「私、ズルいんです。お父様やお母様が考えているほど、そういつもいつもショウジさん(夫)のことを考えているわけじゃありません」
このシーンは台本には「顔を蔽う」「涙を呑む」としか書かれてなかった。原はこの台詞の後、声を出して泣き崩れる。末延氏は「戦争で命を落とした人たちの無念を一心に引き受けたものだ」と指摘する。「内面にいろんな感情とか情動があるわけです。怒りとか喜びとか悲しみとかね。戦争の犠牲になって死んでいった戦士、それになりかわって泣く。そのことが時代を超えて見る人の心を打つのかな」
原が誰にも告げずスクリーンを去ったのは、この東京物語のシーンを演じた10年後のことだった。ゲストの映画監督の周防正行さんはこう語る。「私も『私、ズルいんです』というシーンに心をつかまれました。人間の美しさに救われたような気がして。いまあのシーンを見ても、原節子さんの人間性というか、ピュアな思いっていうのが伝わってくる。それで感動するんだと思います。僕もあのセリフ、芝居にやられちゃったなと思います」
真下貴アナが周防監督にこう質問した。「それは単に役者として、役柄があって台詞があってというだけではないということでしょうか」
周防監督「人間って、出ちゃうんですね。僕は監督としてやってて思うんですけど、演技の上手い下手は当然ありますが、結局、その人がどう生きてるかとか、そのすべてが出ちゃうのが映画の怖さというか面白さなんです。あの役を原さんに託した小津安二郎という人は、そのことを原さんに見たんだと思うんです。この役は彼女なら体現できるということですね」
ビレッジマン