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【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
40. 全国展開するが人材は底をつく

「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   2000年後半、TMCの創業者である私と小林君は、執行役員体制を組むことで生まれた余裕を生かし、それぞれ全国展開と法人営業強化とに乗り出すことに相当の力を注入していた。

   私は関西に同年3月大阪めたりっく通信(株)を、中部圏に同年6月名古屋めたりっく通信(株)を設立し、それぞれ社長、会長に就任した。

   小林君は民間企業のデータ通信勃興時に頭角を現したベテラン営業マンを数名スカウトし、同年8月東京めたりっく販売(株)を社内設立し、その社長に就き、法人営業の陣頭指揮に乗り出した。

   また、かの大工こと杉村君は、NTT光ファイバーのアンバンドリングを見越し、同年6月東京ふぁいばー通信(株)を社内設立し、社長に就任した。このように、ばたばたと元気よく子会社が生まれたが、この中で実質的な事業展開に成功したのは大めた、名めたの2社である。

   ちなみに、ソフトバンク買収後のそれぞれの命運についてここで触れておこう。大めたは、買収後早々にその主力社員であった三須君が幹部社員を誘って関西ブロードバンド(株)を設立し、社長に就任。地域情報化を目指すADSLベンチャーとして全国的な注目を集めて兵庫、京都で善戦中である。

   名めたは、社長の宮川君はソフトバンクの中枢に入り移動体通信の責任者となって活躍中だ。杉村君は、ジェネロ通信(株)を興すが、直ぐにIPモバイルの社長に就任、TD-CDMA方式の新しい無線通信事業に挑むも惨敗する結果となった。

   全国展開するにあたって、TMCが掲げた経営原則は終始一貫しており明確であった。各地域の自主性を尊重して地域ごとに独立会社を設立し、TMCは立ち上げ時の支援に留め、長期的にその会社を自立させるというものであった。

   その支援とは、TMCのブランド力と先行した技術や事業ノウハウの提供である。それ以外の業務、つまりNTTとの相互接続交渉にはじまり、顧客集めや宣伝、オペレーション、事業利益の確保は地元設立企業が全責任を持つことを前提として、全国展開を仕掛けたのである。

   TMCからの初期資金の投入も最低限とする。これに応じられるところがあれば、こちらも応じようというわけだ。それというのも、全国展開の目的を全日本規模でのNTT通信独占に対する抵抗運動と位置付けたからだ。この運動の中心のシンボルにTMCが居れば十分である。1枚岩の全国通信会社などは願い下げた。

   またこれは私の持論であったが、通信インフラの運営主体は地域密着で限りなく細分化されるのが理想と思っている。NTTが都道府県単位くらいに分割されても、日本の通信は立派にやっていける。全体をどう有機的に結合するか、やり方は幾らでもある。このやり方を巡って真の競争が生まれればよい。

   地域情報インフラの運営権は地域に委ねるべきである。ここまで行かなければ、日本は電電公社・郵政省の呪縛から脱し、世界に通用する社会モデルを提示することは絶対にできない。いわば、この理想の実験地を我々は大阪と名古屋に求めたのであった。

   大阪においては、早くから画像ILSデバイスベンチャーのメガチップスが名乗りを上げるが、双方しっくりしないうちに構想から外れた。

   そこで数理技研の開発プロジェクトで知り合い、かねてその自立の旺盛さに敬意を払っていたNTT西社員の川西弘君をスカウトし、春先から大阪事務所も開所して地元連携を模索してもらった。

   しかし、上新電機、関西電力(ケーオプティコム)などの格上の組織へADSL進出を働きかけるが、思うような進展が得られなかった。地域ISPのザクソンとは社長会談まで進んだが、ここも上手く行かない。

   そのうちに、技術面では住友金属のシステム子会社にいた小山君、営業面ではKDD大阪でトップ営業であった三須君などのADSLベンチャーに賭けたいという個性豊かな人材が周辺に集りだした。さらに大阪の地場産業経営者に明るくTMCで知り合った丸紅の花岡氏がいた。彼は日本のCATV黎明期のシステム構築を手がけてきた技術者としも一流の商社マンであった。地域アクセス網の次の主流をADSLと睨み、大阪での展開に支援を申し出でくれた。

   彼らとの議論を通して、TMCの立上げ支援さえあれば、大阪でも地元を対象に公募増資による資金調達集めの可能性が見えてきた。

   こうして地元企業ではなく、地元人材に依拠したTMC100%子会社のADSLベンチャーが誕生する。TMC内には力の分散を危惧する声はあったが、それ以上に全国展開への可能性は魅力的で、役員会での承認は取り付けることが出来た。

   私が社長に就任し、大阪本町ビルに事務所兼NOCを開設、10月から順次開局を進めてゆく。相互接続の相手はここではNTT西日本であった。すべて東に準じるということで交渉ごとの苦労はいっさい生じなかった。TMCでの経験やノウハウがスムーズに移転され、私は週2日程度の大阪通いで済み、順調にサービス提供エリアの拡大が進んでいった。

   翌年3月は大阪中心部24局を開局、約2000ユーザーを獲得する。大阪独自の料金やメニューも続々と編み出され、大阪地域は競合も少なく、あたるところ敵なしの感があった。

   しかし、地元での独立を目指す第1弾となる年内10億円を目標とした大めたの増資は折からのITバブル崩壊と完全に重なり、苦戦した。花岡氏の超人的ともいえる尽力もあって、地元素材会社岸本産業などの数社の応募で、額面10倍で4.95億円の資金調達を果たせたのは翌年の1月末であった。

   その間の機材購入や工事費用など諸経費はTMCの出資金5億円で賄う次第となり、TMCの苦しい台所事情の足を引っ張る結果となったのが心苦しい限りであった。

   だが、メインバンクとの関係は東めたとは違い良好に保たれ、キャッシュフロー上の深刻な危機はこの会社を閉じるまで生じなかったことは救いであったといえよう。

   最終期、社員を40名にまで拡大し、売上も上昇カーブを描きつつあった時点での会社売却はかえすがえすも惜しまれる。この惜敗感をバネに生まれたのが関西ブロードバンドであったことは先に紹介したとおりである。

   なお、関西地域に有力拠点を持たなかったソフトバンクは、大めたを貴重な展開基地として重用し活用したと聞いている。

   大めたが増資の失敗で地元独立企業への道を辿らず最後までTMCの完全子会社であったのに引き換え、名めたの場合は最終期には地元資本が2/3以上を占める独立系会社として発展していた。

   従って、Yahoo BBへの株式売却はTMC経営危機とは全く別物で、この会社の自主的判断により実行されたということを最初に述べておきたい。

   名古屋という地は、東京や大阪とは違って、いかに優秀な人材や資金力を擁しようと、新規進出に厚い壁があることはおぼろげに理解していたので、伊那実験の盟友である安江氏の強い推薦がなければ事は始まらなかったであろう。

   推薦の対象はももたろうインターネット(株)という地域ベンチャーのISPであった。社長の宮川君と側近に始めて会ったときにはその若さに驚いた。しかしその意気は軒昂であり手堅い経営姿勢に好感がもてた。是非ADSLにより、地域ISP生き残りの成功例を築きたいという。地元CATVが常時接続サービスを計画中で、その前にブロードバンド市場へ進出することが急務とのことであった。

   「めたりっく」というブランドとともに、事業ノウハウや技術指導の提供を求められた。私はここにTMC全国展開の意義を実証する最も典型的な同盟軍を見出した思いであり、たちまち意気投合した。ただ、大阪のように高速インターネット接続への技術基盤や法人営業展開の力量は期待できなかった。個人ユーザーへの営業力はしたたかで、ここに的を絞ればあとは技術ノウハウをどう導入するかである。そこに天の采配というべきか、あの梅さんの身が空いた。

   もともとTMCの技術担当役員であったのだが、会社設立が一段落した前年の秋からは伊那あいネットに数百単位のADSL地域網を展開するシステム開発に没頭していたが、それも目鼻がついた所だった。TMCのボードメンバーではあったが現場担当からは身を引いていた。

   絶好の機会と見て彼の名めたへの投入を提案し、役員会と本人の承諾を貰う。また、原口くんも遅れて数理技研からTMCに移籍していた首藤君の投入も決めた。私は会長、宮川君が社長、梅さんは取締役となった。TMCの名めたへの寄与は、資金は少々、ベテラン人材はたっぷり、という構造となった。

   こうして名めたは、大めたに少々遅れて 12月から開局作業を開始し、顧客獲得の快進撃を始める。TMCの経験を生かしADSL機材調達も国産メーカーからとし、アグリゲータもレッドバッグとした。懸案だった積滞問題も年明けには解消していたから、社員数も最小限とし、ももたろうインターネットの営業力を総動員して、ほぼ30開局で1万弱のユーザーを5月中には獲得、3社の中で最も早く黒字経営の目途が立ちつつあった。地元での公募増資で5億円の調達もうまくゆき、名古屋証券取引所が計画中の新興市場第1号を目指そうと明るい空気が漂ってきた矢先、TMCが行き詰まるのである。

   思い起こせば、この渦中で宮川君たちはIP電話の機材を海外から入手、しきりに実験を繰り返していた。彼等の好奇心に若さをダブらせて私は感心したものである。彼が後にYahoo BBに移籍し、固定電話の概念を覆すIP電話事業の展開の推進者となったのは、この経験が原体験であったのだろう。

   以上がTMCの全国展開のあらましである。そのほかに、TMCと並んで商用試験サービス第1号となった九州のニューコアラ、長野県長野市のジャニス、北海道と仙台での展開を希望する地元企業やベンチャーなど、他の地域連携、地域展開の契機は多数にのぼった。日本中がブロードバンド時代に向けて身構えだしていたのだ。

   だが、大阪・名古屋に取り掛かかった段階ではもはや他を顧みる余裕は残されていなかった。財務、人材ともに底をついていたのである。

   それでも近畿と中京を押さえることで、TMCは日本全体に広がるブロードバンドを対象としたビジネスの展望とプレスステージを獲得することにともかく成功したのである。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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