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北京の私服警官だらけの光景 新聞はどこまで伝えきれたのか
(連載「新聞崩壊」第2回/佐野眞一さんに新聞記者再生法を聞く)

   新聞の危機は経営面だけではない。インターネット上には、マスコミを揶揄する「マスゴミ」という表記があふれる。「おまえたちはゴミ」という掛詞なのだが、そこには記者たちへの不信感がにじみ出ている。相手の話を正しく聞き、意図を読み、そして伝える……。そんな「力」を記者たちが取り戻し、信頼を得るにはどうしたらいいのか。「新聞記者再生法」について、「カリスマ」などの著書があるノンフィクション作家の佐野眞一さんに聞いた。

記者は偉そうに見える、と読者から反発

「調査報道もさえない。いい印象は残っていない。ずいぶん昔の(朝日新聞の)『木村王国の崩壊』はよかったけど」と話す佐野眞一さん
「調査報道もさえない。いい印象は残っていない。ずいぶん昔の(朝日新聞の)『木村王国の崩壊』はよかったけど」と話す佐野眞一さん

――新聞が、経営的にも読者からの信頼という側面でも危機を迎えています。新聞記者の評判が悪くなったのはなぜだと思いますか。

佐野 例えばテレビでよく見かける、麻生首相の周りに金魚のウンコみたいに張り付いている若い番記者たち。一番悪いのは、どうも彼らは偉そうに見える。偉そうになってしまったのが、そこはかとなく伝わってくる。映像を見ている人からすれば、波風の立たない片言隻句を集めてるだけなのに、なんであんな態度なのか。そんな反発があると思いますよ。
永田町の噂話から一歩踏み出して、衆院解散の時期をつかんだとして、そんなに偉いことじゃない。ほどなく分かることだし、それをちょっと早く報じたからと言って、読者にしてみれば「あっそう」といった程度のことだろう。

――しかも、今回新聞は「10月解散」とかずいぶん解散時期を間違えて報道しましたね。いろいろと言い分はあるのでしょうが。

佐野 振り回されたんでしょうね。普段から特定の政治家に影響されちゃって、過剰な信頼を寄せている。そうした程度の情報なんだろうな、と読者には分かっちゃう。

――個々人の記者が偉そうにしている訳ではないのでしょうが、そう見えてしまうということですね。

佐野 そう、そう見えてしまう。記者たちが言葉を失ってしまうような厳しい局面の中で何をどう伝えるか、という訓練をしていないことが関係しているのではないか。切った張ったの事件や火事、災害の現場で、例えば子どもを亡くした母親を前にすると、記者は言葉を失うだろう。しかし、それを伝えるために苦労して編み出して言葉にする、そんな訓練をしっかり積んでいなければいけないと思う。記者教育の原点です。

――全国紙では、地方である期間警察を担当させています。

佐野 ルーティンとして取りあえず地方で何年かやってこい、という程度なのではないでしょうか。事件事故を担当しさえすればいい、という訳ではなく、言葉を失う、という状況に真っ正面から向き合うかどうか、なんです。そんなこと記者が一生懸命やっても評価は高くない、というのも問題点です。社会部が政治部より偉い、とかそういうことを言いたい訳ではない。訓練しておかないと、いざという時にゴリッと現実をえぐり出してそれを咀嚼することができないのです。

――ご自分の実体験の中で感じた新聞記者への不満はありますか。

佐野 例えば、単行本になった「東電OL殺人事件」は1997年に起きました。昼はエリートOLだが夜は売春をしていた39歳の渡辺泰子という女性が、渋谷ホテル街の一角で殺害された。ネパール人が逮捕され、1審は無罪、控訴審は逆転有罪無期懲役の判決が出た。上告は棄却され、再審請求中だ。新聞報道は事件発生後、ほどなく弱気になった。被害者名が匿名になり、詳報もなくなった。会社名も出なくなった新聞もあった。
実名か匿名かは難しい問題です。しかし、便宜的になんとなく面倒だから、といった安易な理由で1人の人間を「W」とかの記号にしていいのか。私は悩みながら実名で書いた。そうした悩む力がないと書く力は育たない。新聞は悩むことを避けてはいないか、と感じた。私は冤罪事件と見ているが、新聞は高裁判決以降の動きを十分に伝えていない。再審請求の話をいろいろ調べた上できちんと扱ったところは皆無に等しい。

何を聞くか何を見るか、の感度が衰えている

――新聞記者を「再生」し、読者の信頼を取り戻すには具体的にどうしたらいいのでしょうか。

佐野 新聞記者の使命とは何かを改めて考え直すべきだ。テレビやネットがどんどん速報する中、論評の力を磨く必要がある。それには常に歴史観を意識し、企画力をつけていかなければならない。今度出した本「目と耳と足を鍛える技術―初心者からプロまで役立つノンフィクション入門」(ちくまプリマー新書)では、読む力の大切さを訴えています。文字を読むだけでなく、人の気持ちや危険を読まなければならない。人の言っていることを正しく聞き取り理解して、それを伝える―これができれば少々の困難は乗り越えることができるのです。
もっとも、読む力は普通の人にとっても大事なことで、根源的な身体能力の一部だと思う。新聞記者たちにとっては、読む力は一層大事なはずなのに、衰えてしまっている。北京五輪の開会式取材でも感じたが、何を聞くか何を見るか、の感度は、常に訓練してないと磨かれない。具体的方策、というのはなかなか難しい。読む力、歴史観を常に意識して訓練すること、そして会社がそうした努力と結果をきちんと評価することが必要だと思う。

――論評力と歴史観の関係をもう少し詳しく教えて下さい。

佐野 例えば、「カリスマ」で書いた中内功(正しくは右のつくりは「刀」)さんのダイエーが2004年、産業再生機構に入れられてとどめを刺された。これを当時の新聞は拡大路線のつけがきた、とか誰でも言える近視眼的な論評しかできなかった。そう単純ではないと思います。米国の力がどこか背後で働いた、戦後経済史上最大のドラマとも言うべき動きで、まさに「歴史が動いた」瞬間だった。フィリピンでの戦争体験をもつ中内さんにとっては2度目の「敗戦」でもあった。こうした歴史観を持っていないと論評力がつくはずがない。

――先ほど話に出た北京五輪の開会式で感じられたことは。

佐野 拍手の音をちゃんと聞き分けた報道は見受けられなかったように思う。演出がすばらしい、とかそんな程度だった。すごい拍手だったのはタイペイ(台湾)のときだった。やっとオレたちの偉さが分かったか、という訳だろう。パキスタンの時も大きかった。パキスタンが中国の「敵」インドと敵対しているからで、敵の敵は味方だという心情だろう。逆に胡錦涛(国家主席)への拍手はブッシュのときより弱かった。これは人気がないな、と感じた。こうした耳の感度を持ちうるかどうかも大切だ。雑然としたさまざまな音の中でどこを聞くか、という問題です。

――どこを聞くか、ということはどこを見るかにも通じますね。

佐野 そうです。聞く感度、見る感度、これをもってないと目の前の光景を見ているようで見てないことになる。北京の私服警官だらけの光景を、制約はあったろうが、新聞はどこまで伝えきれただろうか。

佐野眞一さん プロフィール
さの しんいち 1947年、東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経てノンフィクション作家に。1997年、「旅する巨人」で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。著書に「巨怪伝」「だれが『本』を殺すのか」「甘粕正彦 乱心の曠野」「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」など。