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「おーい、仕事したいか?」 すべてはこの一言から始まった
元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(2)

   「お妃選び取材?つまらなそうだな」「でもこの先輩怖いしな」――水面下で宮内庁幹部らによる皇太子(現天皇陛下)のお妃選びが進んでいた1958年当時、「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者、佐伯晋さん(81)は、ひょんなことから顔見知りの先輩記者に「召集」されて取材班に「ひきずり込まれた」。

   佐伯さんに聞く第2回は、佐伯さんの「お妃選び」班入りの経緯を紹介する。

社会部の先輩記者が声をかけてきた

当時の取材について振り返る元朝日新聞記者の佐伯さん。
当時の取材について振り返る元朝日新聞記者の佐伯さん。

――インタビュー第1回で、ご婚約発表解禁があった1958年11月27日の前日の状況を伺いました。そもそも佐伯さんが「お妃選び班」担当になったのはいつですか。

佐伯 「昭和33年(58年)2月16日 召集」。当時のノート(メモ参照)にこう書いている。1955年から1人でお妃割り出し担当として取材を始めていた社会部の先輩の牧さん、伊藤牧夫さんから声をかけられたんだ。牧さんは、事件や調査報道に強いと定評のある先輩記者で、ぼくより5年ほど早く社会部にあがっていた。
   一方、当時のぼくは、4年いた東京の八王子支局から社会部にあがって1年目の下っ端記者。独身、27歳だった。サツ(警察)回りで1方面のサブ、当時は愛宕担当と言っていた。守備範囲は新橋とかの辺りだね。そんなに忙しくない持ち場だったので、時間があれば有楽町の朝日新聞本社3階の編集局にあがって何か社会部らしい仕事が回ってこないかと待ち構えていた。
   「召集」されることになる2月16日の午後、牧さんがふらっと編集局に入ってきて、社会部遊軍席にいたぼくを見つけて、「おーい、佐伯君、仕事したいか?」と声をかけてきたんだ。ぼくが八王子支局時代から、牧さんは応援組で支局管内へ何度か来ており、一緒に仕事をしたことがあったので顔はお互い分かっていた。

いきなり「朝駆け」命じられた

――待ち望んでいた「社会部らしい仕事」が来たわけですね。

佐伯 それが全然。牧さんがお妃選びの割り出しの仕事をやっていたのは、一応社内でも「秘密」ではあったけど、まあぼくにも分かっていた。牧さんに声をかけられた瞬間、お妃選び班の仕事だとピンと来た。当時は、お妃選びといっても、結局宮内庁は旧態依然とした発想でどこかの旧華族のお嬢さんを選んで終わりだろ、という程度にしか多くの人が考えてなかった。ぼくもそうで、苦労のわりにむくわれなさそうだし、正直、つまらなそうな仕事だな、というのが頭をよぎった。
   その時はまさか、後に民間から美智子さんがお妃に選ばれ、戦後民主主義や開かれた皇室の象徴となる歴史的な出来事になるとは思ってなかった。そうなる(民間出身のお妃が誕生する)と面白そうだな、とはちらっとは考えていたけど。
   牧さんから声かけされたとき、気乗りはしなかったけど、この先輩は怒るとおっかない人だしね、「ハイ」と答えるしかなかった。すると、牧さんはデスクのところへ行ってごにょごにょ話を始めた。ぼくを使っていいか、という人繰りの算段をつけたんだろう。
   2月中旬の当時、担当記者たちの間で「3月危機説」が流れ始め、「お妃選びは3月に大きな動きがある」という見方が出ていた。まあぼくは後で知ったんだけど、それで牧さんもそろそろ1人では大変だと思っていた時期だったようだ。
   それで、牧さんはデスクとの話を短時間で終えるとぼくのところへ来て、「じゃあ、明日から......」と、いきなり「朝駆け」を命じてきた。レクチャーも何も一切なし。今、手元のノートを見ると、「2月17日 宇佐美張り込み」と書いている。

朝5時半には自宅に迎えの車

――どんな「張り込み」をしたのですか。

佐伯 当時の宇佐美毅・宮内庁長官の自宅を朝から車で張り込んで、予定通り皇居へ通うかどうかを追跡して見張れというのだ。どこか別のところへ向かえば怪しいから追いかけろ、というわけだ。夕方は皇居から宇佐美邸へ逆ルートの作業だ。
   長官は朝7時に出るのが普通だから6時から黒塗りの社有車で待ち伏せしろ、という話だった。皇居までは約20分間だ。ぼくの飯田橋の自宅には5時半には車が迎えにきていた。
   こんな生活を日曜以外毎日続けても何も変化はない。他社でこんなことをやってるところもなかった。すぐにバカバカしくなって、ぼくより約1週間後に召集された記者の岡並木くんと一緒に、朝夕の張り込みなんてやめるべきだと談判しようと相談していたら、早くも3月3日、そんなことが言えなくなる事態が発生したんだ。

<編集部注:佐伯さんが当時のことを語る際、「民間」時代の美智子さまのことは「美智子さん」と表現しています。>


<メモ:佐伯さんの取材ノート>A4判の灰色のノート2冊。どちらもかなり茶色みを帯び、表紙は一部破れている。ご婚約発表(報道解禁)前に予定原稿を書く際、当時メモ帳につけていた情報をノートにまとめたものだ。メモ帳の数は、B4判封筒2枚に詰まるほどで、「10~20冊」はあった。

   ノート2冊のうち、1冊は「○(マル)正ノート」、美智子さまの実家、正田家関連の情報を書いている。もう1冊は日報もの。佐伯さんが「お妃割り出し班」入りしたときから、ご婚約発表が近付いた1958年11月上旬ころまでの宮内庁幹部らへの「夜討ち朝駆け」の概要などが日付を追って載っている。

   当時の朝日新聞記者は、ざら紙を数十枚束にして縁をつけたものをメモ帳として使っていた。「ズボンの後ろポケットにちょうど入るくらい」(佐伯さん)の大きさだ。これに鉛筆で書き込んでいた。

   佐伯さんの取材ノートは、1999年に朝日新聞顧問を佐伯さんが退き、しばらくしてから部屋の片付けをしていたところ、本棚の下の方から見つかった。


<佐伯晋さんプロフィール>

1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。