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「最初の軽井沢テニス」は偶然だった 「(皇太子さまを)負かしちゃったわ」
元「お妃選び班記者」が推理する「テニスコートの恋」の「真相」(3)

   「(皇太子さまをテニスで)負かしちゃったわ」――美智子さまは当時の友人らにこう無邪気に語られた。

   「お妃選び取材班」担当だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)に、皇太子さまがたの「『テニスコートの恋』をめぐる虚実」に関する推理を聞くインタビュー第2部の3回目は、お妃選びで旧華族の線が厳しくなる中、お妃決定へ向け「奮闘」する選考首脳らの姿について語ってもらう。

「田島日記」にも「軽井沢テニス」は全く出てこない

お二人が初めてテニスをされた軽井沢会のコートは現在もある(北軽井沢ブルーベリーYGH提供)。
お二人が初めてテニスをされた軽井沢会のコートは現在もある(北軽井沢ブルーベリーYGH提供)。

   ご婚約が決まる1958年(11月)の前年、57年10月の東京・調布でのテニスに皇太子さまが学友を通じて美智子さんをお誘いになった段階では、皇太子さまはまだ「恋に落ちた」わけではなく、「気にはなっている」段階だ、という推理を前回話しました。

   一方の美智子さんは、1957年9月にあった聖心女子大の同窓会で、8月の軽井沢での皇太子さまとの初テニスのときに家族の知人から撮ってもらった写真を持参し、「(皇太子さまを試合で)負かしちゃったわ」と話しています。

   仮にすでに恋愛感情が芽生えていたとすれば、こんな場所で写真を友人らに見せびらかしたりするはずがありません。

   以上のような点から「1957年8月軽井沢テニス」が2人の恋の出発点、という説は否定できると思っています。

   また「1957年8月軽井沢テニス」は、お妃選考首脳らによるお膳立てではなく、偶然だと考える理由は次の通りです。

   第1部でも登場した選考首脳のひとりで、前宮内庁長官だった田島道治さんがつけていた「田島日記」にも「1957年8月の軽井沢テニス」は全く出てこないし、後の回顧文で「偶然だった」と書いた別の選考首脳もいます。偶然とみるべきでしょう。

旧華族のK嬢の線で進めていることを強調

   では、1957年10月の東京・調布でのテニスの段階で、美智子さんをお誘いするよう水を向けた黒木侍従はどう感じていたか。

   美智子さんについて、かなりの手応えを感じ、良い鉱脈を掘り当てたと思っていたはずです。しかし、当時は守旧派の「常磐会」松平信子会長の推薦で、Kという旧華族のお嬢さんについて検討していました。

   そのため、黒木侍従は、「開明派」ともいえる宇佐美毅・宮内庁長官ら一部の選考首脳には自分の考えや情報を伝えつつ、「守旧派」の松平会長らとパイプがある田島さんらには、あくまで旧華族のK嬢の線で進めていることを強調していたのでしょう。

   すぐに情報が伝わってしまい、「民間なんてとんでもない」と大騒ぎになることが目に見えているからです。田島さんも、薄々そういう気配は感じていたかもしれませんが、「うまく利用されてやろう」と大きく構えていたのではないでしょうか。

   「開明派」に理解がある小泉信三さんには、やや遅れて11月ごろには黒木侍従らが事情を説明しただろうとみています。

   その後、年が明けて1958年の1月25日、事実上「Kはダメ」という流れが選考首脳らの間で固まりました。

相次ぎ同じテニスクラブへ入会

   この流れを受けたかのようなタイミングで、黒木侍従は2月に入り、動きを加速させます。

   皇太子さまに美智子さまの写真(1957年10月の調布テニスの際に皇太子さまが撮影)を美智子さんに送ったらどうかと勧めたようです。ほどなく皇太子さまは、写真を美智子さんへ送っています。

   また、黒木侍従は皇太子さまに「正田さんを調べてみるよう(選考首脳の)小泉信三さんにお願いしたらどうですか」とも助言したようです。これも2月中のことでしょう。皇太子さまは実際に、小泉さんに要請をされました。

   さらに、同じ2月には小泉さんの勧めで皇太子さまが、小泉邸近くにある南麻布の東京ローンテニスクラブに入会し、3月には、皇太子さまの学友の紹介で美智子さんが同じクラブに入会しています。

   以降、お2人はかなりの頻度でテニスを同クラブを中心に一緒にする間柄になっていきます。このあたりの段取りは、小泉さんらによるお膳立てとみてよいでしょう。

   では、この時期の1958年2月、3月あたりで美智子さんが形式的にもお妃候補の本命になったのかというと、まだそうではないのです。


<編集部注:佐伯さんが当時のことを語る際、「民間」時代の美智子さまのことは「美智子さん」と表現しています>


<佐伯晋さんプロフィール>

1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞社入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。