2024年 4月 26日 (金)

旧庁舎を「震災遺構」として保存するか、解体するか【岩手・大槌町から】(3)

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旧大槌町役場庁舎の前で犠牲者の霊を慰める人たち=2013年7月2日
旧大槌町役場庁舎の前で犠牲者の霊を慰める人たち=2013年7月2日

   海岸から直線距離にして約300メートルの場所にある旧大槌町役場庁舎が、無残な姿をさらしている。東日本大震災による津波は、高さ6.5メートルの防潮堤を軽々と乗り越えて役場を襲った。当時の加藤宏暉(かとう・こうき)町長以下、逃げ遅れた職員40人が犠牲になった。旧庁舎は遺族の祈りの場となり、震災から2年4か月を経た今も、献花に訪れる人の姿が絶えない。


   この旧庁舎を震災遺構として保存するか、解体するか。大槌町民の意見は二分している。碇川豊(いかりがわ・ゆたか)町長は一部を保存する方針を決め、町は具体的な手法や予算の検討に入っている。しかし、解体を求める声は根強く、保存は確定していない。町議会が保存の予算を認めなければ、町の方針が覆る可能性がある。


   碇川町長は、保存する方針を明らかにした2013年3月末の記者会見で、その理由をこう語った。「二度と同じ悲劇を繰り返さないためには、災害の記憶を風化させず、防災教育の充実を図ることが必要だ。遺構は被災地住民だけでなく、国民全体の財産と捉えるべきだ」


   さらに、解体論を意識し、次のような町民向けのメッセージを公表した。「当町は明治三陸津波、昭和三陸津波及びチリ地震津波により、多くの町民の方々が幾度となく犠牲となったにも関わらず、今回の震災で、さらに多くの町民の方々が犠牲になりました。私は、こうした教訓を後世にしっかり伝え、将来、町民の方々が二度と同じ悲劇を味わうことがないようにすることが行政を預かる者としての責務ではないかと考え、苦渋の決断をいたしました」


   旧役場庁舎の保存問題については、2012年秋に学識経験者や職員遺族ら11人からなる、検討委員会が設置されて論議がなされ、両論併記の報告書がまとめられた。町職員の遺族の意見は、保存38%、解体49%。委員になった遺族2人の意見も割れた。「震災は風化する。残して防災教育に使ってほしい」「見るのがつらい。津波を思い出す。早く壊してほしい」


   大槌町新港町の自宅を津波で流され、仮設住宅に住む上野ヒデさん(71)は、夫の強三さん(当時69)と、町役場職員の一人娘芳子さん(33)を亡くした。強三さんは自宅で、芳子さんは町役場で亡くなったと見られている。


   ヒデさんは保存せよ、との立場だ。しかし、気持ちは揺れた。「当初は、見るのもいやだった。遠くから眺めて手を合わせていた。しかし、震災は20年もたてば風化する。形あるものを残すべきだと思うようになった。娘のものはすべて流され何も残っていない。娘の生きた証がほしかった」。ヒデさんは週2回、旧庁舎前の献花台の掃除を続けている。


がれきに囲まれた震災直後の旧大槌町役場庁舎=2011年5月8日
がれきに囲まれた震災直後の旧大槌町役場庁舎=2011年5月8日

   戦後68年、全国各地に今も残る「戦災遺跡」を文化財に指定し、保存しようという運動が広がりを見せている。戦争を知る人たちが亡くなっていく中で、戦争を物語る遺跡を残し、戦争の悲惨さ、平和の尊さを語り継いでいこうというのがねらいだ。国や地方自治体が文化財に指定・登録したものがすでに200件以上にのぼるという。97年は4件だったというから、このところ急増している。


   「戦争遺跡」と「震災遺構」を一緒にはできないのかもしれないが、惨事を繰り返してはならないという人々の思いが、そこには凝縮されている。もちろん「解体」派のひとにも、そうした思いは共通しているわけで、そこにこの問題の難しさがある。(大槌町役場総合政策課・但木汎)


連載【岩手・大槌町から】
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