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保阪正康の「不可視の視点」 
明治維新150年でふり返る近代日本(2) 
「奴隷解放宣言」で実現できたはずの「道義国家」

   開国をめざした日本に、<歴史>は四つの国家像を示していたというのが、私の見立てなのだが、その第一が、つまりは現実に史実として私たちの前にあらわれている近代日本史である。後発の帝国主義的国家であったわけだが、この選択が正しかったか否かなどは論じたとて意味はない。

   幕末から開国への道筋をみれば、指導層を形成した薩摩や長州の士族たちは、この選択しかなかったであろう。なかんずく開国を要求する欧米の帝国主義国と武力衝突を避けて和親の方向で、国際社会に出ていこうとしていたわけだから、先進帝国主義から思想、哲学、政治制度を真似することにより一等国を目ざしたのはわからないわけではない。富国強兵はまさにその心理から生みだされた語であった。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 外務卿(外相)を務めた副島種臣。マリア・ルス号事件では清国人奴隷の解放を命じた

輸送船に乗っていた清国人奴隷を解放

   明治4年11月に岩倉使節団の名のもとに、全権大使岩倉具視、副使木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら48人と留学生を交えての100名を超える一行は、アメリカやヨーロッパを見て回り、近代国家の現実社会を確認してきた。600日を超える日程で、日本の新政府の指導者たちが理解したのは、日本が目ざす国家像はまさに欧米に負けないほどの大国になることだった。

   私のいう第一の道は、まさにそれを現実化したのである。

   しかしその一方で、第二の道(帝国主義的国家の選択は同じだが、植民地解放や被圧迫民族の側に立つ道義国家)の選択はありえたのだろうか。私はありえたと思う。一例をあげれば明治5年の「マリア・ルス号」事件をあげればわかりやすいだろう。このルス号は、ペルー船籍の輸送船で、中国人(そのころは清国人)231人を奴隷として買い、それぞれの買い主に送り届けようとしていた。ところが台風にあい、横浜港に退避してきた。そのうちの一人がこの船から脱出して、イギリス公使館に逃げこんだのである。イギリス公使ハリ・B・バークスはこの脱出事件を日本政府にとりついだ。すると外交を担っていた副島種臣は、奴隷を解放しなければ横浜から出港させないと命じる。ペルー船の抗議にも委細かまわず、清国人奴隷は解放され、清国に帰された。

   この件は国際的にも問題になり、ペルーと日本が仲裁を依頼した形で明治6年にロシアのサンペテルブルグで国際仲裁裁判が行われる。日本の言い方は認められたが、ペルーの側に立ったイギリス人弁護士は、「日本にも人身売買はあるではないか」と発言している。これはどのことを指すのだろうと考えたあげくに、日本政府は娼妓の前借金をさすと判断して娼妓解放令を発している。

道義国家なら「征韓論」「征台決行」どうなった

   このころの日本には、奴隷を認めないとするこのような真面目さがあった。私がいう道義国家とは、こうした処置の折に国際社会にむけて「奴隷解放宣言」を発する度量をもつことだった。こういう声明を発表していたら、このころ起こっていた征韓論、実際に踏み切った征台決行なども国際社会の枠組みの中で議論されることになり、開国日本の進路も異なったのではないかと思われるのだ。

   第三の道(自由民権を柱にした国民国家像)では、明治6年の征韓論に敗れて下野した板垣退助、江藤新平、副島種臣、西郷隆盛らの中から板垣のように国会開設を求める民権論者が出てきて、明治10年代は自由民権運動が全国に広がっている。当初は板垣の組織する愛国社などが中心になるが、明治13年ごろには全国の民権論者を集めて国会開設の運動が起き、自由民権運動は燎原の火のように広まっていく。

   政府側で軍をにぎる山県有朋は、この運動が軍内にはいってくるのを恐れ、「軍人勅諭」(明治15年)を布告している。軍人は政治に関与してはならないというのであった。一方で政府側は集会条例を制定し、反政府運動に強い威圧をかけている。明治10年代初期には、名古屋事件、大阪事件のように民権論者の起こす暴動は、一歩間違えると内乱に転化するような激しさがあった。

   自由民権運動のなかでは、土佐の植木枝盛などがまとめた憲法草案は、軍事、外交に天皇の権威を認める一方で、国民の基本的権利にも言及していて、きわめて民主的な内容を伴っていた。

江戸時代のような連邦制国家になっていれば

   もし民権国家が完成していたら、天皇と国民の関係について大日本帝国憲法とは異なる体系をもつ国家になっていたことが想像される。私は明治初期の自由民権運動そのものが近代日本の現実の史実にはあらわれてこないにせよ、地下水脈として続いていたのではないかと考えている。それが大日本帝国解体後の現在の憲法の幾つかの部分に具体的に反映しているのではないかとも思う。

   そして第四の道である。これは江戸時代の国家像をもとに独自の連邦制国家としての道である。明治4年7月に西郷隆盛が主導権をにぎる形で廃藩置県の勅令が発せられる。新政府は全国統一のためにこの処置はやむをえないとしても、この廃藩置県は、全国の旧藩士たちの生活を根底からくつがえすことであり、不平士族の反乱がそれこそ全国化することもありえた。それを予想したのか、新政府はまさに抜き打ちで行った。

   西郷や大久保利通が主導権をとっての政策と知って、薩摩藩の最高指導者だった島津久光は、激高したともいわれている。

   この廃藩置県が不平士族の反乱に結びつくわけだが、つまりは新政府の軍事力そのものが各藩の行動を抑えることにもなった。ただここで考えておかなければならない「歴史的視点」についてである。それは江戸時代の270年近く、日本はまったく対外戦争を行っていない。国内にあっても内乱の類はない。その結果どうなったか。本来戦うべき要員の武士階級(国民の1.2%だから35万人ほどになる)は、戦うべき武術の訓練を、人格陶冶の手段に変えてしまった。つまり武術を文化に変えたのである。きわめて抑制された民族国家をつくりあげたといってもいいだろう。

   かといってそれぞれの藩は、戦(いくさ)に備えて何もしなかったわけではない。情報戦、武器の隠匿、さらには戦術の研究を続けている。

   私は、明治維新時に250藩余の藩のうち大藩である30藩ほどを軸にし連邦制国家をつくるべきだったと思う。江戸時代自体が、連邦制国家のようなものだったからである。この点は改めて緻密に吟味しなければならない。

   四つの国家像をさらに新しい視点で検証を続けていこう。(第3回につづく)




■プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、「昭和史の大河を往く」シリーズなど著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。