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佐藤栄作首相「新聞記者は出ていけ」発言の真相 浅利氏、「責任の半分は私に・・・」と明かしていた

   亡くなった浅利慶太さんは、歴代の首相など大物政治家のブレーンも務めていた。佐藤栄作首相とはとくに深いつながりがあった。ふだんからマスコミ対応についてアドバイスをしていた。

   佐藤栄作首相の有名な「新聞記者は出ていけ」発言については、責任の半分は自分にあったと著書『時の光の中で』(文春文庫)の中で明かしていた。

  • 劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方」(浅利慶太・作、文春新書)
    劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方」(浅利慶太・作、文春新書)
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最後はテレビを通じて語りかける

   この発言は1972年6月17日、佐藤首相の退任記者会見で飛び出した。新聞では自分の発言内容が曲げられるから、テレビを通じて国民に直接訴えたい。そんな思いから出た発言だったと言われている。怒った新聞記者たちは会見場を出てしまった。しばしば新聞の凋落、テレビ報道時代の到来を象徴する出来事として語り継がれている。

   しかし実際はちょっと違ったというのだ。浅利さんによると、急な退陣と言うこともあり、当日の手違いで「出ていけ発言」が飛び出してしまった。この件の「責任の50パーセントは私(浅利氏)、残りの50パーセントは当時の竹下登官房長官」にあり、佐藤さんには責任がない、と同書で語っている。

   浅利さんによると、佐藤首相は担当の「番記者」(当時は大半が新聞記者)を非常に大切にする人だった。しかし、海外の政治家ではすでに、フランスのド・ゴール大統領などがテレビを通じて直接国民に語りかけたりしていた。佐藤首相は長期政権だったので、遠からず退陣する。退陣会見では、一度だけテレビを通じて国民に語りかけられてはどうか。浅利さんはそう進言していた。佐藤氏は「君のいうとおりにするかどうかはわからん。だがテレビのことは考えてみよう」と答えていた。

「なんだこれは、話が違うじゃないか・・・」

   肝心の退陣日、浅利さんは別の仕事で徳島にいた。「Xデー」を知らされていなかったからだ。当日の様子をこう推測する。

   佐藤首相が「今日はまずテレビと話す。それから記者諸君だ」と突然言い出す。竹下官房長官らがあわててお膳立てする。ところが首相が会見場に行くと、いつもと同じように新聞社の番記者が前方に陣取り、テレビカメラが後方にいる。なんだこれは、話が違うじゃないか・・・。

   佐藤首相は、テレビカメラが後方にいても望遠レンズでアップに撮れるということを知らなかった。政見放送の録画取りの時のように、自分とテレビカメラが至近距離で向かい合うと思って会見場に入ったら、いつもと同じように新聞記者が前にいた。当時の新聞記事によれば、「テレビはなんでそんなスミにいるんだ。もっと真中に出なさい、真中へ」「私はテレビと話したい。国民と直接話したいんだ」。

   いったん仕切り直しとなり、首相は退座して約10分後にまた会場へ。今度は内閣記者会の幹事社が抗議する。「総理は先ほどテレビと新聞を差別するような発言をされたがわれわれは許すことができない」。首相はきっと身構え、「新聞の人はみんな外に出て下さい」。

   その様子を報じるテレビ映像を浅利さんは徳島で、血の凍る思いで見つめていたと回想している。打ち合わせが不十分なままに始まってしまった異例の会見。本来なら事前に浅利氏がキメ細かく段取りを決め、チェックをする立場にあった。そうした思いが、「責めを負うべきは私と官房長官」という言葉になった。

日中秘密交渉にも関与

   佐藤氏との出会いには劇団四季が深く関わっている。劇団四季創立メンバーの有力俳優、水島弘さんの父が佐藤氏と同郷で、大学でも鉄道省でも先輩だった。そんな縁から佐藤氏の寛子夫人が長年、四季のチケットを公演のたびに10枚ずつ購入してくれていた。

   長州訛りのしゃべりが残り、ぶっきらぼうな人と思われがちだった佐藤氏。しゃべり方を直す家庭教師役を寛子夫人から頼まれ、浅利氏が招かれる。やがてソフトなメディア対応を考えるブレーンの一人に。寛子夫人を積極的に多彩なメディアに登場させ、「気さくなファーストレディ」を演出したのは浅利さんだった。佐藤氏の著書『佐藤栄作日記』には浅利氏の名前が19回も出てくる。民間人では異例に多い。

   日中国交正常化についても、佐藤政権時代から、水面下の工作が行われていたと浅利さんは明かしている。

   中国首脳にパイプがある人物として、密使役を務めたのは日中文化交流協会の事務局長だった白土吾夫氏。戦後30回以上も訪中し、毛沢東主席とも何回も会っている。浅利さんが直接、推薦し、佐藤-白土会談が何度も極秘にもたれ、浅利さんも同席した。白土氏は中国に出向き、佐藤首相の胸の内を周恩来首相に伝える役目をした。交渉は半年ほど続いたが、最終的に佐藤首相は断念した。中華民国の蒋介石総統が「以恩徳怨=徳を以て恨みに報いる」との考えから、日華平和条約で日本に対する賠償権を放棄してくれていたことへの恩義を重視したからだ。

「徳をもって恨みに報いよう」

   1972年5月5日の夜、佐藤首相は浅利さんと二人だけの席でこう告げた。「私は近々退く。次の政権が北京と復交するとなれば、蒋介石も止むをえないことと思うだろう」。

   当時の事情を知る関係者によると、日本側も中国側も、複数のルートで関係改善を模索していた。佐藤氏の後継となった田中角栄内閣は、発足3か月後の72年9月29日、北京で日中国交正常化に調印した。

   浅利さんは、佐藤さんが語った蒋介石の言葉「以恩徳怨」をミュージカル「李香蘭」で使っている。中国人でありながら、日本の手先になり、祖国を裏切った容疑で軍事裁判に掛けられていた李香蘭は、最後に日本人だと判明して許される。そのクライマックスシーンで中国人裁判長が歌ったのが「以恩徳怨」の曲。「憎しみを憎しみで返すなら争いはいつまでも続く。徳をもって恨みに報いよう」という歌詞の大合唱がステージにこだまする。浅利さんはそこにおそらく、日中国交正常化を模索しつつも成功しなかった佐藤首相の思いや、佐藤氏がこだわった蒋介石への恩義の気持ちも込めたに違いない。

   浅利さんは後に中曽根首相のブレーンにもなり、中曽根氏は後年、中国との関係を密にする。「以恩徳怨」を主題としたミュージカル「李香蘭」は1992年の中国公演でも高く評価された。戦後政治、日中関係史にも深く関与していた希有な演劇人が浅利さんだった。