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若手農家が挑む福島米「天のつぶ」 地域の米作りを「守る」使命感 (前編)

提供:東京電力ホールディングス

   脱サラして飛び込んだ米作りの世界。その2年後の2011年3月11日、東日本大震災に見舞われた。このとき、福島市は震度5強。震度6強を観測した浜通りの福島第一原子力発電所では翌12日に水素爆発が発生し、周辺住民に避難命令が下り、住まいを追われることになる。


   福島市内で米農家を営むカトウファームの加藤晃司さんは、「もうダメかと思った」と振り返る――。一時避難を終えて、いま、加藤晃司・絵美夫妻は米作りを再開。「土」や「米」と向き合う時間が楽しいという。二人が歩んできた道のりと福島の「食」について、話を聞いた。

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福島で米農家として生きていく(加藤晃司さん・絵美さん夫婦)

「福島で生きる」という覚悟

―― 「農家になろう」と思った、きっかけはどのようなことだったのでしょう。

加藤晃司さん 「2009年に、祖父の跡を継ぎました。それまでは夫婦とも、ふつうのサラリーマンでしたが、生活にちょっと息苦しくなっていたんですね。農家は人と向き合うことが少なく、『ストレスがかからない』っていうイメージでした。それで妻に聞いたら、『それで食べていけるのなら......』と」

加藤絵美さん 「私自身も勤めていましたし、閉塞感というか...... なので、様子がわかりましたから、反対はしませんでしたね」

―― でも、若い人が「農業をやろう」というケースは少ないですよね。何が背中を押したのでしょう?

晃司さん 「いや、もともと田んぼは祖父がやっていたものですし、まずは家族の食べる分だけでも作れればいいかなという感じでした。サラリーマンの働き方って、人とのコミュニケーションが利益を上げることに繋がっていますよね。社内での人間関係とかも。そんなことに疲れちゃったんです」

絵美さん 「農業は自然が相手じゃないですか。なので、人と話すことが息抜きになるんですね」

晃司さん 「ただ、このままだと米作りって先々どうなっていくのだろうといった不安というか、将来像が描けないところがあって、やっているうちにだんだんと『このままじゃいけない』といった意識が芽ばえてきたことはありますね」

―― 東日本大震災のときの心境を、振り返っていただけますか。

晃司さん 「震災のとき、妻のお腹に3人目がいたこともあって、会津に一時避難。そこで原発事故の説明と放射線の影響、健康被害などの説明を受け、川場村(群馬県)に避難しました。しかし、3月下旬に福島へ戻り、4月には市内で再度、原発事故の影響について説明を受けました。その後は放射線量をカウンターで測りながら記録する毎日でしたし、実際に放射線量が1.2~1.5マイクロシーベルトを記録することがあり、やはり不安でしたね。
 『本当に大丈夫なのか』と自問自答しながらも、もしかしたら、死んでしまうんじゃないか。そう思ったこともありました。いつ、どうなるかわからないのに子供たちを本当に守ってやれるのだろうか、といった怖さがありました。それでも、帰還するときに決めたんです。『覚悟』を。ここで生きていく。ずうっと、ここで農業をやっていく覚悟を決めたんです。その一方で、若手農家がうちしかないこともあって、少しずつ『やるしかない』という使命感が湧いてきたように思います」

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加藤晃司さんは、福島の米作りの将来を憂う

「地域から田んぼがなくなってしまう」

―― 米作りで腐心していることを教えてください。

晃司さん 「もともと福島の農業というと、東京では果物を思い浮かべる方が多いと思います。どちらかというと、お米は会津、中通り(福島市や郡山市など)や浜通り(いわき市や南相馬市、富岡町など)は果物や野菜が中心。ただ、中通りでも米作りはやっていて、果物畑の隣に田んぼがある。そんなイメージでしょうか。福島は、土壌はもちろん、水がいいので農作物がおいしく育つ環境にあります。
ただ、周囲の農家さんは高齢者が多く、今後いつまで続けていけるか、わかりません。うちは祖父が持っていた田んぼの面積だけでは食べていけないので、ご近所の農家さんの田んぼの稲を刈って、精米して、という農作業を手伝っています。ご近所の農家さんが引退してしまうと、私たちの手伝い仕事も減ってしまい、結果的にこの地域から田んぼがなくなってしまいます。
そういったことから、米作りを続けていくために会社を起こしました。今のカトウファームの規模だと、お手伝いできる仕事量も限られてしまいます。会社として、もっと人を雇って、続けていけなくなった田んぼを引き受けられるようにしたいと思っています。
その一方で、米農家はお金がかかります。たとえば10町歩(1万平米)の農地で米作りをはじめるにしても、トラクターなどの農機具をそろえる必要がありますから、すぐに数百万円が必要になります。収穫した米を納める倉庫や作業場も必要ですし、個人がすべて賄えるようなわけにはいきません。それもあって、法人化する必要がありました」

震災、原発事故もプラスに変える

―― 米作りの課題は、どこにあるのでしょう。

晃司さん 「お米の価格が、もう一つの課題です。震災前は、ずっと地元の業者さんが提示する相場で売っていたのですが、受諾作業の仕事が減って、自分たちの作ったお米を売ったお金で生計を立てなければと考えたときに、買い取ってもらう金額と実際の労力が合っていなかったことに気づかされました。
お米の品質には自信をもっていますが、米価は産地で決まってしまう部分が大きいので、とくに原発事故後は『福島』というだけで価格が低く設定されていると感じました。ただ、その半面で作るだけじゃなく、もっとお米の単価を上げる努力をしないといけないことに気づきました」

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「福島米が安全なことを知ってもらいたい」と語る加藤絵美さん

絵美さん 「米価は需給関係で決まりますから、仕方がないことなのですが、だからといって食べてももらえず、風評で評価が決まることは歯がゆく感じていました。そこはなんとかしなければいけないと、震災をきっかけに『ブランディング』していくことを考えはじめました」

―― それが現在の取り組みに繋がるわけですね。

絵美さん 「震災後しばらくは、試行錯誤しながら売り上げを確保してきました。勉強会に出て、ブランディングの視点からお米をどう売るかを考えたり、『天のつぶ』を福島県より先に売り込んで、東京をはじめ、呼ばれればどこへでも出かけました。実際に見て、食べて、感じてもらいながら、ゆっくりでいいので盛り上がっていけばいいと思いましたし、その一方でWEBサイトを作って、お米の情報を発信したり、日常の作業の様子を日記のように更新したり、できることからPRしはじめました。
こうした活動のおかげで『天のつぶ』のおいしさや、福島産のお米の安全性をわかってもらえるようにもなってきました。今は情報発信を通じて、カトウファームのファンになってもらうというよりも、福島のファンになってもらいたい。自分と出逢ったことをきっかけに福島を知ってもらいたい、と強く思っています。福島全体がよくならなければ、自分たちの売り上げも長続きしないと思うんですよね。
震災と原発事故によって、あまりいいイメージはないでしょうが、少なくとも『福島』を知らない人はいなくなりました。『メジャーになったな』くらいの気持ちで、前向きにとらえていこうと考えるようになりました」

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福島の寒暖差がある気候と清流が「天のつぶ」を育む
―― 「天のつぶ」の特徴やおいしさを教えてください。

晃司さん 「福島県が15年かけて開発した品種で、減農薬だけでなく、福島盆地の特徴である寒暖差と福島市の清流で、やさしい甘みと、粒ぞろいがよく、食べ応えのあるしっかりとした食感が楽しめます」

プロフィール

カトウファーム

加藤晃司・加藤絵美(かとう・こうじ/かとう・えみ)

2009年に祖父の跡を継ぐため、サラリーマンから米農家に転身。現在は高校生の長男を頭に、4人の子供を育てながら、米作りと「福島」の食の安全を日本全国に広めている。

減農薬で丹精込めて育てる、福島県のブランド米「天のつぶ」は、福島盆地の寒暖差と清流が生きたやさしい甘みと、粒ぞろいがよく食べ応えのある品種。米の安心・安全の国際的な保証基準である「グローバルGAP (Good Agricultural Practices:農業生産工程管理)」の取得と、取得する農家の支援に取り組む。オーガニック栽培もはじめた。

http://katofarm-f.jp/