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江波杏子さん、三島由紀夫からも薫陶 「膝の上」に乗ったのを機に...

   2018年10月27日に肺気腫(慢性閉塞性肺疾患)の急性増悪のため亡くなった江波杏子さん(享年76)は、あの「昭和の文豪」とも交流があった。

   戦前に東宝で活躍した映画女優の江波和子さんを母に持ち、東京・千駄ヶ谷で育った江波さんは、高校在学中の1959年に大映のニューフェイス・オーディションを受け、応募者2000人の中から合格を勝ち取り、「明日から大人」(1960年)でデビューした。

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「入ります」大流行も本人は「好きな役ではなかった」

   芸名である江波杏子は、5歳の時に亡くなった母親の芸名と室生犀星の新聞連載小説「杏っ子」に由来している。

   デビューからしばらくは助演が続いたが、1966年の「女の賭場」で映画出演58本目にして初めて主役の座をつかんだ。「昇り竜のお銀」を演じたシリーズは大ヒットし、1971年の「新女賭博師・壺ぐれ肌」まで、全17本が制作された。

   同シリーズで江波さんが賽を振る際に放つセリフ、「入ります」は当時、大流行したが、江波さんは生前、「好きな役ではなかった」と話していた。

   江波さんは映画女優にとどまらず、1960年代から70年代にかけてグラビアでも活躍するなど、活動の場を広げていった。

三島氏との「銀ブラ」エピソードも

   江波さんの芸能活動に大きな影響を与えたのは、昭和の文豪・三島由紀夫氏だった。

   大映の新人時代、三島氏が俳優として主演した映画「からっ風野郎」(1960年)に、江波さんはキャバレーの女給役で他の女優たちと出演。三島氏が女給を膝の上に乗せるシーンで、三島氏が女給役を演じる女優の中から選んだのが江波さんだった。

   江波さんは2017年6月24日放送の「サワコの朝」(TBS系)で当時の様子をこう振り返っている。

「乗ったんですけど。乗って、ライティングとかそういう時間がありますね。その間になんかちらっとお話ししたら、なんか、面白がっていただいて、そんな親しくなんかさせていただいたわけじゃないけど、面白がってもらって、色んなとこにお供させていただいたって感じですね。その当時は何だか分かんないけど。お宅にもうかがったり」

   これを機に三島氏との交流が始まったという。また、番組では三島氏と銀座を歩いた「銀ブラ」のエピソードも披露した。

   三島氏とのつながりで、著名な作家、芸術家らと交流を持ったという江波さんは「そういう(芸術家の)方々から色んなことを教わりましたよ。映画の見方とか、本の読み方であるとか、音楽の聴き方であるとか。その人たちのやってることを見て覚えた。本当にすごかった、面白かった」と当時を懐かしむように振り返った。