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故・米倉弘昌氏の「蚊帳」 アフリカにも貢献した経団連会長

   「好々爺」という言葉がぴったりの柔和な表情と、思ったことをズバッと口にする飾らなさ――2018年11月16日死去した、経団連第12代会長の米倉弘昌(よねくら・ひろまさ)氏が周囲に親しまれたのは、そんな人柄ゆえだったという。

   その米倉氏が財界のリーダーとして立ったのは、政権交代、東日本大震災といった激動の時代だった。その事績を振り返る。

  • 経団連会長時代の2011年(写真右)。ヒラリー・クリントン米国務長官、松本剛明外相(いずれも当時)らと
    経団連会長時代の2011年(写真右)。ヒラリー・クリントン米国務長官、松本剛明外相(いずれも当時)らと
  • 経団連会長時代の2011年(写真右)。ヒラリー・クリントン米国務長官、松本剛明外相(いずれも当時)らと

「本命」ではなかった会長選出

   神戸市出身。1960年東大法学部を卒業後、住友化学工業(現住友化学)に入社。順調に出世の階段を上り、2000年に社長に就任した。化学業界きっての国際派として鳴らし、サウジアラビアで大規模な石油化学コンビナートを建設するなどグローバル展開を加速。アフリカではマラリア感染を予防する蚊帳を売り込み、ビジネスと援助とを両立させた。

   財界活動の源流は、1970年代にさかのぼる。第4代の土光敏夫会長時代に副会長を務めた長谷川周重元社長の秘書として経団連活動に携わった。以来、経団連事務局とも太いパイプができ、2004年に経団連副会長に就任。2期4年間務めた後、2008年からは御手洗冨士夫会長の下、実質的なナンバー2である評議員会(現審議員会)の議長を務めた。

   とはいえ、ポスト御手洗の本命だったわけではない。そもそも、評議員会議長を務めたあとに会長に就任したのは、1950年代に東京芝浦電気(現東芝)社長を務めた石坂泰三氏だけだ。三菱、三井、住友という旧財閥系企業から会長を選出しないとの不文律もあったため、会長選出は難しいと思われていた。しかし、他の候補者が尻込みするなどして調整が難航し、御手洗氏が最終的に指名したのが米倉氏だった。

菅政権、安倍政権ともに物申した

   就任前年の2009年には、「経団連嫌い」の民主党政権が誕生。米倉氏は早くから「選挙に勝つために、よいことだけを約束する時代は終わった」などと問題点を指摘していた。

   2011年の東日本大震災をめぐっては、発生当日に対策本部を立ち上げ、本部長に就任。会員企業に協力を呼びかけ、被災地への迅速な燃料・救援物資の提供などに取り組んだ。政府の対応のまずさに腹を据えかね、「間違った陣頭指揮が混乱を引き起こす」と当時の菅直人首相を痛烈に批判。エネルギー確保のため、原発再稼働は必要との立場を貫いた。

   2012年12月に自民党が政権に復帰すると、安倍晋三総裁が掲げた金融緩和政策について、「無鉄砲だ」と批判して、安倍首相の不興を買った。首相との「しこり」は残り、経団連会長の「指定席」とされていた経済財政諮問会議の民間メンバーにも選ばれなかった。

   政権との距離感に悩んだ米倉氏だが、世界各国との関係強化には大きな功績を残した。2012年9月の沖縄県・尖閣諸島国有化で冷え込んだ日中関係を改善するため、何度も中国に足を運んだ。環太平洋連携協定(TPP)交渉への参加や、経済連携協定(EPA)交渉開始を各方面に訴えた。2期4年を務めた米倉氏は2014年、東レ出身の榊原定征氏に会長の座を譲った。

   中西宏明・現会長は「自由経済、自由貿易をなんとしてでも守り抜くという固い信念を持った、生粋のリベラルな経営者、リーダーだった」との談話を発表した。