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保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(25)
「帝国主義国家化」後押しした「ドイツ軍事学」

   1867(慶応3)年の大政奉還、翌慶応4年が明治元年になるのだが、この時から1885(明治18)年の第一次伊藤博文内閣が成立するまでのほぼ20年近くが、近代日本がどのような国家を選択するかの争闘の時代だった。諸説が成り立つと思うが、私は何度か述べてきたように4つの国家像があったと思う。むろんこれは私の意見であり、人によってはもっと多く、あるいはもっと少なくとの意見もあるやと思う。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • ロイセン(ドイツ)から招いたメッケルの軍事学が、近代日本の軍事学の基礎になった

軍事が先行し、政治が後を追う

   しかし4つの国家像に絞っていいのではないかと思う。それが(1)帝国主義国家(2)帝国主義国家的な道義国家(3)自由民権国家(4)連邦制国家―となるのだが、この国家像の内で(1)の帝国主義国家を選択したのが現実の姿であった。その道がいかに無理を重ねてきたか、それをこれまで検証してきたのだが、最後は軍事のもつ典型的な性格を代弁していた東條英機という人物によって、崩壊、解体したと論じてきた。この事実は何を語っているのだろうか。

   このシリーズでは一方で、可視と不可視という尺度を史実の中に持ち込んで、史実に膨らみを持たせて近代日本史を見つめるといった試みも行っている。いわば不可視の視点で、軍事による崩壊、解体を見ていく時、重要な事実があることを指摘しておくべきだろう。それは近代日本の出発時の争闘の時代の中に隠されている。

   日本はまず軍事がスタートし、そのあとを政治が追いかけたという事実である。言ってみれば、政治が軍事を動かしたのではなく、軍事が先行し、そして政治がその後をついていくというのが現実の姿だったのである。大久保利通や大山巌などの明治政府初期の指導者は軍事体制の確立を急いだ。各地各層の不満分子が決起することを恐れたからである。1873(明治6)年の徴兵令などで国民に徴兵の義務を課して軍事を整備する一方で、天皇の守護を目的に近衛兵団が作られた。しかし1877(明治10)年の西南戦争時に結果的に明治政府下の政府軍が整備されることになった。同時にそれまで政府要人の間では、「海主陸従」の方針に傾く考えもあったのだが、西南戦争を経てやはり陸主海従の方針が固められることになった。日本は海に囲まれた海洋国家だから、軍事は侵略に抗するべき手段でそれ以上の軍備は必要ではないというのであった。その論は西南戦争によって破られた。治安維持に陸軍は重要な役割を持つというのであった。

   1882(明治15)年に陸軍大学校が開校した折には 、フランスからお雇い軍人が来て、近代軍のあり方を教えた。しかし、フランス陸軍の軍事知識は日本に向いていないということで、翌1885(明治18)年にプロイセンからメッケルを招いて、プロイセンの軍隊(ドイツ軍)を受け入れることになった。このメッケル軍事学が、近代日本の軍事学とされることになったのである。陸軍大学校を優秀な成績で卒業することが、日本陸軍の栄達の何よりもの保証になったのである。

史実を無視してドイツの軍事学を取り入れる

   もともとそれぞれの国の軍事学は、その国の歴史、国民性、隣国との関係、財政、戦争体験、政治など国家の多面的な要因が絡み合って成り立っている。定まった理論があってというわけではない。たとえばアメリカは自国の領土にいかなる形でも、他国から指一本ふれさせまいとする。自国を決して戦場とせず、アメリカンデモクラシーを守るためには、どこの地までも兵を送る、と言ったところが読み取れる。それが軍事学の要諦を成している。

   ではプロイセン(ドイツ)の軍事学はどうだったのか。この軍事学の中軸は皇帝のために命を捧げるという点にあった。誰がその最初の役を果たすのかが注視されていた。この事実は軍事が皇帝のための忠誠の証として機能していることでもあった。近代日本の軍事にこの事実は重みを持った。天皇のために命を捧げるというのはすでに、軍人勅諭で示されていたからである。日本の軍事学もまさにこの点が軸になった。

   日本の軍事学は本来なら江戸時代のただの一回も対外戦争を体験していないことが、軸の中心になってしかるべきであった。しかし、そういう貴重な史実は無視されたのだ。さらに日本社会の共同体に流れている生命への尊びを軍事に取り込むべきなのに、そういう理念も無視された。あまつさえドイツの軍事学も時代とともに変遷し、1918年に帝制が崩れたあとは、国民軍にと変容しているにもかかわらずそういう変化に日本の軍事論は全く対応していなかった。

   そして何より、天皇に命を捧げるとの忠誠の証を兵士たちには求めるものの上級将校は、それを無視する形になったことであった。しかも、武士道という日本の伝統を利用して、 兵士に一方的に「死」を強要したのである。武士道には多様な考えがあるのを無視して、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」で知られる佐賀鍋島藩の「葉隠」の教えだけに絞っていった。次回はこの点をさらに検証していきたい。(第26回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。