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北方領土交渉「行き詰まり」の真実 法政大・下斗米伸夫教授「アプローチは全く正当です」

   北方領土4島の「一括返還」を求めてきた日本政府の方針が大きな岐路を迎えている。2018年11月にシンガポールで行われた日ロ首脳会談で、1956年の日ソ共同宣言を基礎にして平和条約交渉を加速させることで合意したことを発表。共同宣言は、平和条約締結後に色丹島、歯舞群島を日本に引き渡すことを明記しており、交渉も事実上の「2島先行」に舵を切った。

   ところが、2019年1月に行われた安倍晋三首相とプーチン大統領による25回目の首脳会談では、両首脳から領土問題の進展を示す言葉が聞かれることはなかった。果たして日ロ交渉は「手詰まり」なのか。法政大学教授の下斗米伸夫さん(ロシア政治)に見通しを聞いた。(聞き手・構成:J-CASTニュース編集部 工藤博司)

  • 北方領土交渉についての見通しを語る 法政大学教授の下斗米伸夫さん(ロシア政治)
    北方領土交渉についての見通しを語る 法政大学教授の下斗米伸夫さん(ロシア政治)
  • 北方領土交渉についての見通しを語る 法政大学教授の下斗米伸夫さん(ロシア政治)

プーチン大統領が求めるのは「一発解決」

―― 1月22日に行われた25回目の日ロ首脳会談をどう評価しますか。領土問題をめぐる交渉は「行き詰まり」なのでしょうか。

下斗米: 日ロ双方に世論と条約上の根拠、言い分があるわけで、それに拘泥すると、なかなか交渉は進みません。こういった状況を踏まえて、まずは4島で共同経済活動や元島民による墓参を行う枠組みが作られました。主権はともかく、日本人であれロシア人であれ、現地で経済活動ができるというメカニズムです。これはホップ、ステップ、ジャンプの「ホップ」にあたる議論です。次の「ステップ」は国境線の画定です。ただ、プーチン大統領が最も求めているのは「国際法的な国境線」で、「段階論」ではなく「一発解決」です。16年12月の山口県長門市での会談で4島での共同経済活動に関する議論を行い、その上での25回目の会談ですから、国境線をめぐる本格交渉が始まったという段階に来たと思います。

―― ラブロフ外相は1月14日の日ロ外相会談後の記者会見で、日本側に対して「南クリル(北方領土のロシア側の呼称)全島の主権がロシアにあることを含めて、第2次世界大戦の結果を完全に認めること」を求め、「北方領土」という日本側の呼称についても「受け入れられない」と主張しました。日本側にとって、相当ハードルは高いように見えます。

下斗米: 「個体発生は系統発生を繰り返す」という、反復説を表す有名な言葉があります。公式的な交渉ラウンドに入った以上これまでの主張を全部並べておく、という意味合いがあると考えています。2日後の1月16日の記者会見では、第2次世界大戦の結果を受け入れることにについて「最後通牒でも(交渉の)前提条件でもない」と、トーンダウンさせています。ですから、首脳会談自体は、どのくらい激しい議論が行われたかはわかりませんが、ある程度外相レベルで折衝した上での首脳会談だということは言えます。
   国境線の画定はある意味限定されたテーマで、1956年の日ソ共同宣言をベースにした議論を進めて合意すれば線は引けます。共同経済活動の積み残しや島の主権をどうするか、棚上げにするか、といった事柄で時間がかかっていると思います。これから国境線をめぐる議論を本格化させ、仕上げが平和条約の締結です。ただしこれは、「これから本当に領土をどうするか」という問題の第1歩に過ぎません。平和条約を結んでから領土問題を解決する。これまで日本政府は「領土問題を解決して平和条約を締結する」という方針でしたが、18年11月のシンガポールでの会談で、安倍首相は、従来の順番を逆転させるという、相当大きな決断をしたとみています。

現在の日本のアプローチは「正当」だ

―― 日本政府は、これまでの「4島一括返還」から、色丹島、歯舞群島に共同経済活動を組み合わせた「2島+α」へのシフトを鮮明にしています。これは妥当なのでしょうか。

下斗米: 指摘しておかなければならないのが、「吉田茂首相のジレンマ」です。1951年のサンフランシスコ講和条約で日本は千島列島を放棄することを表明しましたが、「千島列島は歴史的にはロシア(ソ連)の領土になったことはない」という解説も加えました。国際法上の法的効果を持つのは前者、つまり放棄なわけです。その線で交渉は進み、56年共同宣言に向けた交渉でもソ連側が2島引き渡しの意向を示し、松本俊一・全権代表からすれば「しめた」となった。ところが当時は冷戦下なので、米国の横やりもありました。

―― ダレス国務長官が「国後、択捉をソ連に渡すなら米国は沖縄を永久に領有する」などと揺さぶりをかけた、いわゆる「ダレスの恫喝」ですね。先日、その内幕を松本氏が妻に向けて記した手紙の存在をTBSが報じ、話題になりました。

下斗米: サンフランシスコ平和条約締結当時の西村熊雄条約局長は、日本が放棄した千島列島には、南千島(択捉、国後)も含まれる、と答弁していました。これを公式に転換したのが56年3月の森下國雄・外務政務官と下田武三・外務省条約局長による国会答弁で、日本政府は「北方領土は4島」だ、つまり放棄した千島に含まれないという解釈を示しました。それ以降の日本の世論は、基本的には「4島論」しか聴いてこなかった。56年10月に署名された日ソ共同宣言の「2島+α」論は「伴奏曲」程度にしか受け止められてきませんでした。
   国政政治学者の中には「2島+α」論を唱える人もいましたが、「4島論」の方が声が大きいわけです。それは外務省条約局の主流派、丹波實さんによる、「日本側が4島の北に境界線を引き、当面はロシアの施政を認める」という98年の川奈提案まで事実上つながっています。そしてこれがロシア側に蹴られた。そこで小渕内閣と森内閣で立て直しを進める一方で、プーチン大統領の就任直後の2000年9月の首脳会談で「56年宣言は有効であると考える」と発言しました。その後、外務省はスキャンダルに見舞われ18年経って、やっと日本側の交渉ポジションが「2+α」になった。こういう経緯です。様々な攻め方はあると思いますが、外交は相手のあること、川奈提案の「4-α」が失敗した以上、「2+α」で行くしかない。現在の日本政府のアプローチは全く正当だと思います。ここで合意できれば国境線は固まると思います。

事務次官経験者「国家主権を自ら放棄した歴史上初めての首相」

―― 国境線を引くというのはつまり択捉、国後のこっち(日本)側に引くということですよね。

下斗米:常識的に言えば、そういうことになりますね。問題は両国の世論です。70年近い成果なき交渉の間に、両国政府の世論工作が牢固としてできあがった。双方でその地雷源をどうやって避けていくか。ある段階で、きちんと日本政府は国民に示さなければなりませんが、今言ってもまだ...。本当は静かに交渉を進めながら、きちんと説明するのが本当ですが、世論の政治の時代ですからね。

―― 繰り返しになりますが、ラブロフ外相は「4島の主権を認めるべき」だと主張しています。日本側の立場は「ロシアが不法占拠している」といういうものでした。ここで歩み寄ろうとすると、日本側はこれまでの方針を大転換させる「踏み絵」を迫られそうです。落としどころについて、どうお考えですか。

下斗米:55~56年の交渉では、ロシア側の主張にも弱いところがあります。領土を画定する条約を作るには相手が同意しない限りだめなのです。連合国が全員賛成しても、敗戦国である日本がNOと言い続ける限り国際条約にならない。だから両国とも国内向けの政治を展開してきたわけです。領土やシベリア抑留の問題など、第二次世界大戦の結果は非常に厳しいものでした。そこを沈静化するのにこれだけ時間がかかった、ということでもあります。やっと領土問題に取り組める段階になったともいえますが、人によっては「我々は2度戦争に負けた」という論調もあります。1月28日の朝日新聞朝刊に載っていた石合力・ヨーロッパ総局長のコラムでも、事務次官経験者から「平和時の外交交渉において国家主権を自ら放棄した歴史上初めての首相になる」というメールが来たことが明かされていました。指導者同士が妥協しなければ平和条約は進まないのですが。

―― 今回の首脳会談後の会見では、「8項目の『協力プラン』の具体化を含め、経済分野での協力進展を歓迎」することが表明されました。ですが、北方領土をめぐる交渉が膠着状態に見える中で、カネだけ持っていかれるのではないか、という懸念も出ています。いわゆる「食い逃げ論」です。

下斗米: この議論は双方にあります。まだ国民レベルでの信頼になってないからです。経済協力と領土交渉の両輪を進めることが必要です。今の国際政治全体が、この状況を日本に強いているという側面があると思います。2国冷戦構造は完全に終わって多極化が進んでいます。中国の勢いはロシアをはるかに上回っており、プーチン大統領は欧米による制裁で東方シフトを強めています。今年の新年の辞にあったようにプーチン大統領も「誰も助けてくれない」状況です。そのため、ロシアは日本と仲良くしないと孤立してしまう。トランプ大統領が「アメリカ・ファースト」を加速させるとなれば、日本も孤立しかねません。いかにして日ロ両国が連携するか、最低でも普通の関係を作るか。それが求められる時代になっていると思います。

   クリミア問題より北方領土の方が早く解決できる

―― 4島を「実効支配」しているロシアにとって、交渉に応じる動機はあるのでしょうか。

下斗米:ロシアが抱えている領土問題は2つしかありません。北方領土問題とクリミア問題です。ロシアからすれば、北方領土問題を国際法で処理したという先例を示せれば、世界やヨーロッパ、ウクライナと和解するときに役立ちます。クリミア半島は1954年までソ連邦内のロシア共和国でしたが、フルシチョフ第1書記がウクライナに編入したという経緯があります。ウクライナがクリミア半島をロシアに割譲するかわりにロシアが賠償金を払う、といった可能性はありますが、安全保障上の根拠と宗教上の根拠があの半島にあるので、国境線を決めるのは時間がかかると思います。ウクライナの政権が2つ3つ倒れるくらいの大きな問題で、日本との和解のほうが早い、という計算もあるのだと思います。安倍首相のジレンマと同時に、プーチン大領領の支持基盤をどうやって説得するかという問題はありますが、プーチン大統領だからできる、逆にいうとほかの政治家ではできっこない仕事です。

―― クリミア半島に比べれば北方領土の方が決着がつきやすい、ということですね。安倍首相の自民党総裁としての任期は21年9月までです。任期満了までに何らかの分かりやすい形での成果がなければ、解決は遠のいてしまうのでしょうか。

下斗米: (安倍首相の任期が終わる)3年以内に(平和条約に)サインして次のステップへの道筋がつけられれば御の字ですよね。これはプーチン大統領にとっても大事です。日本の政治家で仮にXさんYさんが出てきて、その人が安倍さんほどロシアに情熱を持つとは限らないし、国際関係がもう許さないかもしれない。そうなると日本は短命政権では無理ですから、「今のうちに刈り取っておきたい」というのもプーチン大統領にはあるはずです。そういう意味では安倍首相と条約上の公約を作り、国際法で縛るというのがプーチン大統領の戦略だと思います。

メディアは目先の問題だけでなく、背景も解説を

―― 平和条約に向けてのボトルネックは、やはり世論でしょうか。日本経済新聞が1月25~27日に行った世論調査では、「4島の一括返還」をすべきだと答えた人は27%で、同様の質問をした18年11月から6ポイント低下しています。最も多かったのが「2島をまず先に返還」の41%で、5ポイント減。「2島だけ返還」が6ポイント増えて11%でした。

下斗米: 自民党を含めて、政府は丁寧に説明する必要があると思いますね。いずれにせよこの数か月で決着できなければ、そのチャンスは遠のくと思います。

―― メディアの報じ方は世論に影響すると思いますが、メディアに対して望むことはありますか?

下斗米:目先の島の問題だけではなく背景も含めた解説が必要だと思います。連合国の内部対立(英国が毛沢東政権容認、米国が台湾の国民党支持で、日本は台湾を「放棄」とした、この流れで朝鮮半島、千島列島も放棄となった)とか。国民の大多数は、冷戦の背景を抜きにした日ロ関係の認識しか持っていません。歴史教育を自民党政権がやってこなかったつけがまわってきたともいえます。今からでも、北方対策協議会などできちんとした説明をすれば、分かってもらえると思うのですよね。

下斗米伸夫さん プロフィール
しもとまい・のぶお 1948年札幌市生まれ。東京大学法学部卒業、同大学院法学政治学研究科修士課程修了、同大学院法学政治学研究科博士課程修了。法学博士。専門は、ロシア・CIS政治、ソ連政治史。成蹊大学教授を経て、法政大学教授。