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「球数制限より、まず登板間隔」 元甲子園優勝投手が語る「率直な心境」

   高校野球の球数制限問題が大きな波紋を呼んでいる。新潟県高等学校野球連盟(新潟高野連)が今春の春季大会で投手の投球数を1試合100球に制限することに関して、日本高等学校野球連盟(日本高野連)は2019年2月20日、新潟高野連に対して再考を申し入れることを決定。高校生投手の投球過多による肩の酷使が問題視されるなか、日本高野連の対応に球界のみならず各方面から賛否の声が上がっている。

   高校野球の投球数制限は本当に必要か否か。J-CASTニュースは、元甲子園の優勝投手で、横浜ベイスターズ(現DeNA)で活躍した下窪陽介氏(40)に、社会問題化している高校生の投球制限について自身の体験をもとに見解を聞いた。

  • 下窪陽介さん(2018年10月撮影)
    下窪陽介さん(2018年10月撮影)
  • 下窪陽介さん(2018年10月撮影)

選抜大会Vも夏の地方大会で右肩が...

   下窪氏は、1996年の第68回選抜高等学校野球大会に鹿児島実業高等学校のエースとして出場し、決勝で智弁和歌山高を破り優勝。同大会では5試合すべてを一人で投げ抜き、春夏通じて鹿児島県勢初の全国制覇を成し遂げた。その年の夏の甲子園ではベスト8進出し、ドラフト候補選手としてプロにも注目された。

   投手として将来を嘱望されていた下窪氏だが、夏の甲子園出場を決めた鹿児島県大会決勝で右肩を剥離骨折したという。新チーム結成後、エースとしてマウンドに上がってきた下窪氏は、地方予選から甲子園までほとんど一人で投げ抜いてきた。3年生の夏の甲子園には、肩の故障を覚悟して臨んだという。

   下窪氏は高校卒業後、日大に進学して野球部に入るも、高校時代に肩を酷使した影響で右肩を故障し、野手に転向している。大学卒業後は社会人を経て、2006年のドラフトで横浜ベイスターズから5位指名を受けて外野手として入団。4年間のプロ生活を送り、現在は祖父・勲さんが始めた創業47年の「下窪勲製茶」(鹿児島県南九州市)の職員として働いている。

「試合が一日でもあけば負担は全然違ってくる」

   新潟高野連が導入を予定している1試合100球について、下窪氏は自身の体験をもとに独自の見解を示した。

「私の経験からいえば、球数の制限よりも先に登板の間隔をあけるべきだと思います。高校生にとって、試合が一日でもあけば肩や肘にかかる負担は全然違ってくる。私の場合、球数よりも連投による肩や肘の疲労が大きかった。選抜の決勝では、肩と肘はパンパンの状態で、ほぼ限界でした」

   下窪氏が高校時代、2学年下に元巨人の杉内俊哉氏(38)がおり、他にも数人控え投手がいたという。ただ、当時は「対戦相手に礼を尽くす」というチーム方針のもと、たとえ戦力的におとるチームにも、必ずエースの下窪氏がマウンドを任され、下窪氏もまた、チーム方針を十分に理解し、納得した上でマウンドに上がったという。

「選手の意志を尊重してあげたい気持ちも...」

   また、下窪氏は元高校球児として、今回の問題について率直な心境を語った。

「高校の野球部には、プロを目指している選手もいれば、野球は高校までと決めている選手もいる。投手にとって肩は消耗品なので、プロを目指している投手には指導者がしっかりと指導し、投球数などを管理してあげればいいと思います。決して投球制限を否定するわけではないですが、選手の意志を尊重してあげたい気持ちもあります。高校生にとって甲子園に行けるかどうか、甲子園で優勝できるかどうかは、その後の人生を大きく変えるものですから」

   春の選抜大会決勝で下窪氏と投げ合った智弁和歌山高のエース高塚信幸氏も、高校時代の連投が影響して肩を故障したひとり。高塚氏は1997年にドラフト7位で近鉄バファローズ(当時)に入団するも、肩が完全に回復することなく一度も1軍のマウンドに上がることはなかった。キャリアの途中から野手に転向したものの結果を残せず6年間のプロ生活を終えた。

   下窪氏と高塚氏が甲子園で投げ合いを演じてから20年以上経った今も、高校野球の投球問題は解決の糸口さえ見出せないでいる。学校教育の一環であるはずの高校野球は「勝利至上主義」が取り沙汰され、本来の姿を見失っている感がある。

   甲子園優勝投手から肩の故障での野手転向、そして横浜での4年間のプロ生活。下窪氏は、自身の野球人生を振り返りつつ、最後に高校時代の投球について「今でもまったく後悔はしていません」と言い切った。