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ドナルド・キーンさん死去 日本文学を世界に紹介

   日本文学や日本文化の研究者として国際的に活躍し、文化勲章も受賞した米国コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさんが2019年2月24日、死去した。96歳だった。報道各社が同日報じた。

   安倍公房、三島由紀夫らと深く親交を結び、日本文学を海外に広めることに貢献した。翻訳だけでなく日本語での著作も多かった。

  • 「ドナルド・キーン自伝」(中公文庫、2011年)(Amazonから)
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飛び級を繰り返し16歳で大学生に

   1922年、ニューヨーク生まれ。いわゆる神童で、飛び級を繰り返し16歳の誕生日に早くもコロンビア大学文学部に入学した。

   当初はフランス語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語とその文学を学んだが、中国人学生と親しくなって中国語の勉強も始める。さらに、たまたま「源氏物語」の英訳を読んで感動、「サイタ、サイタ」という小学校用の国語テキストで日本語を少しずつ覚え、日本人教員の角田柳作氏のもとで日本思想史の授業も受けた。

   日米開戦で米海軍の日本語学校に入学し、本格的に日本語に取り組む。1年後には卒業生総代として30分間の答辞を述べるまでに上達した。その後は翻訳・通訳官としてアッツ島やキスカ島、沖縄攻略作戦に従軍し、日本軍人の捕虜の尋問や、彼らが書き残した日記の解読にあたった。

   戦後、コロンビア大学に戻り、さらにハーバード大、英国ケンブリッジ大学でも学んだ。博士論文は「国姓爺合戦」。この時期、哲学者のバートランド・ラッセルや、東洋史研究者で駐日米国大使にもなったエドウィン・ライシャワーらとも交流を深めた。

   53年、京都大学大学院に留学。下宿先で、米国留学から帰ったばかりの教育学者、永井道雄・京都大助教授(当時)と知り合い、生涯の友となる。永井さんの紹介で中央公論の嶋中鵬二社長とも昵懇になり、嶋中さんを通して東京の主要な文化人と親交を結んだ。

   82年から92年まで朝日新聞社客員編集委員。86年にはコロンビア大学に「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立された。89年から2年間、国際日本文化研究センター教授。晩年は日本に住んで、日本国籍も取得、浄瑠璃三味線の奏者である上原誠己さんを養子にしていた。

三島由紀夫から最後の手紙

   近松門左衛門から現代文学まで、多数の翻訳を残した。日本に関する著作として日本語のものが約30点、英語のものも25点ほど出版されている。2011年から『著作集』も刊行された。代表作として『日本文学史』、『明治天皇』、『百代の過客 日記にみる日本人』など。多数のエッセイのほか、司馬遼太郎との対談『世界のなかの日本』『日本人と日本文化』もよく知られている。

   1962年、古典および現代日本文学の翻訳、海外への紹介などの功績で菊池寛賞を受賞したのを皮切りに、国際交流基金賞、読売文学賞、日本文学大賞、全米文芸評論家賞、井上靖文化賞、毎日出版文化賞、朝日賞などを次々と受賞。2008年には、外国出身の研究者として初めて文化勲章を受章した。

   同世代の日本文学研究者では、同じコロンビア大学名誉教授のエドワード・G・サイデンステッカーさん(1921~2007)も有名だが、キーンさんは日本に軸足を置いて活動した期間が長かった。日本語での著作も非常に多く、講演やテレビ出演、新聞連載などを通して広く日本人に親しまれた点が際立った。

   戦後の代表的な作家とは深く付き合った。とくに安倍公房、三島由紀夫と親しかった。三島とは頻繁に手紙のやりとりをしており、自決の2日後に、最後の手紙が届いた。そこには「ずつと以前から、小生は文士としてではなく武士として死にたいと思つてゐました」と辞世の思いが書かれていた。