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浅草の名物喫茶店「アンヂェラス」70余年の歴史に幕へ 街の復興夢見た創業者・澤田要蔵さんの功績

   東京・浅草の名物喫茶店「アンヂェラス」が2019年3月17日をもって閉店することが店のホームページで発表され、惜しむファンの人たちが連日列をつくっている。創業者、澤田要蔵さん夫妻は焼け野原の東京に人が集まれる場所を作りたい、文化を興したいと終戦の翌年、1946年1月1日に急ごしらえの喫茶店を開店、浅草文化人のたまり場となっていた。その後、浅草は「古い繁華街」として寂れる一方、澤田さんは浅草商店街のリーダーとして「浅草の復興運動」を続けていた。そしていま、浅草は賑わいを見せているが、木造アンヂェラスは取り壊すしかない運命だった。

  • 木造のアンヂェラス。中は3階になっている。
    木造のアンヂェラス。中は3階になっている。
  • 木造のアンヂェラス。中は3階になっている。
  • 復刻した浅草の賑わい。仲見世商店街は整備された。

文人、芸能人がお茶を飲みに集まった

   店が面しているオレンジ通りはかつて区役所通りと呼ばれた。現在の浅草公会堂は旧浅草区役所を建て替えたもので、区役所前の通りは一等地でもあった。店は平屋で建てられたが、お客が増えるにしたがって、中に2階を作り、屋根裏が3階となった。今回の閉店は老朽化のためだという。

   澤田さんは呉服屋の育ちで、人気スター長谷川一夫らと交流があった。アンヂェラスが開店すると、文人、芸能人がお茶を飲みに集まった。古川ロッパ、安藤鶴夫、玉川一郎、サトウ・ハチロー、久保田万太郎、高見順、川端康成、太宰治、手塚治虫らの色紙が、かつてはテーブルの上にガラスに敷かれて置いてあった。入り口わきのテーブルは私設「記者クラブ」として、新聞記者のたまり場に提供、コーヒーをサービスしていた。

   澤田さんの自慢は、自動ドア―東京第1号と、当時は珍しい水出し珈琲だった。

   蝶ネクタイで身なりをきちんとしていた澤田さんだが、若いころには多くの武勇伝を持っていた。仲見世の老舗、浅草文扇堂4代目社長荒井修さんは2016年に亡くなったが、生前、澤田さんの武勇伝を知る最後の人としてこう話していた。

「浅草専門店会の旅行などでご一緒すると、よく聞かされたものです。銀座のクラブでけんかとなり、2階からシャンデリアにぶら下がって飛び降りて闘った」

   観光客にたかっているチンピラを見つけるといきなりビンタを張った。親分が仕返しに来るかと案じていたら、若いものが迷惑かけたと謝りに来たという。澤田さんは空手使いで喧嘩が強かった。

情熱を傾けた「浅草復興」

   浅草のイメージを明るくしたいという思いが強かった。1963年の衆議院法務委員会に参考人として出席、都条例について暴力行為を厳しく取り締まってほしいと証言している。

「いったん、警察の手が緩みますと、彼らはお膳のハエのように、また、飛び出してまいりまして、警察のすきを狙っては、あちこちで客引きを行い、また、エロ写真を販売する......」

   当時の浅草がそうだった。

   澤田さんは1983年に79歳で亡くなり、妻の露子さんは2006年に92歳で亡くなった。アンヂェラスの経営は親族によって引き継がれてきた。

   澤田さんの時代、浅草は衰退の道をたどっていた。1960年の浅草はかろうじて映画、演劇の提供場所として人を呼んでいた。当時の調査では、「盛り場へ行く目的」で浅草は42.0%が観劇、いっぽう銀座、新宿、池袋は買い物が主たる目的だった。(「東洋経済」別冊夏季号1961年)国際劇場はホテルに変わり、娯楽ストリート浅草六区から映画館が消えていった。

   浅草は飲食と買い物の町に変貌した。東京都台東区の調査によれば、浅草を訪れる人は年間3000万人(2016年)を超え、使ったお金は飲食と買い物で900億円を超えている。2014年に開業した東京スカイツリーのおひざ元となって浅草は再興し、外国人観光客を集めている。新生浅草の一方で、澤田さんのアンヂェラスが閉店とは、皮肉な巡り合わせである。

(J-CASTニュース発行人 蜷川真夫)