2024年 4月 25日 (木)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(44)
教科書から読み解く「戦争観」の変遷

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   日露戦争の英知がなぜ太平洋戦争時には受け入れられなかったのか、それを分析していくには多くの視点や見方がある。私はその視点の軸に、可視と不可視の史実を持ち込んでいるのだが、この場合とてさまざまな史実で語っていくことができる。これまでの説明では、軍人勅諭と戦陣訓の対比によってわかることを考えてみた。さらに日露戦争時の伊藤博文のような役割を持つ指導者が、太平洋戦争時には不在だったということにも触れてきた。

   昭和天皇自身が、太平洋戦争の敗戦について4点を挙げ、その一つに「常識ある主脳者(原文ママ)の存在しなかった事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、と云ふ様な大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く(略)」と『昭和天皇独白録』で明かしているほどだ。確かに天皇の胸中を理解できる人材がいなかったことが、太平洋戦争時には明白であった。二つの戦争の違いについて改めて論じていくことにしたい。

  • 明治時代の国定教科書。リベラルな記述も多かった(写真は国立公文書館ウェブサイトから)
    明治時代の国定教科書。リベラルな記述も多かった(写真は国立公文書館ウェブサイトから)
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 明治時代の国定教科書。リベラルな記述も多かった(写真は国立公文書館ウェブサイトから)
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん

大半の生徒が「読み書き算盤」できた明治時代

   今回はこの二つの戦争の時に軍事と政治の責任者は、国民にどのような教育を行おうとしていたのか、その点を見ていくことにしたい。

   そのための手段として、1904(明治37)年の国定教科書の改定によって次代の子供達にどういう教育が行なわれることになったか、その内容を吟味してみることにする。そして1941(昭和16)年にやはり国定教科書の改定が行われていたが、この時はどうであったか、その内容を確認してみたい。むろん当時の政治、軍事指導者がそれぞれに向き合った戦争への心構えを、児童、生徒の教科書に持ち込んでいるわけではないのだが、しかし次の時代を担う子供達に新たに始める戦争をどのように教えようとしているか、はうかがうことができるのである。

   日露戦争時の指導者は、今自分たちが向き合っている戦争の本質をどう考えていたか、を知るための有効な手段であるとは言えるのだ。この手法はあまり用いられているわけではない。しかし可視、不可視という視点で歴史を見ていくならば、意外に多くの示唆を与えているようにも思うのだ。国民(臣民というわけだが)が、臥薪嘗胆を合言葉に三国干渉をはねのけて、まるでその恨みを晴らすかのごとく日露戦争に向きあったのは、そこに傾いていく忠臣としての心理構造があったからでもある。

   明治30年代は就学率が大幅に向上した。1901(明治34)年の義務教育の就学率は男子が90.5%、女子が71.7%であった。つまり児童、生徒のほとんどは読み書き算盤の基礎はできていた。さらに中等教育もそれなりに充実してきて、社会の中に知的な広がりを裏付ける環境は揃っていた。こうして1904(明治37)年から国定教科書(第1期)が全国一斉に使用されることになった。日露戦争が始まるのとほぼ同時期に国定教科書は作られたのである。ところがこれらの教科書はかなりリベラルだったのである。次の様に評することができた。

「やがては(国定教科書は)極端な<忠君愛国>を強調するものになっていったが、それでもとにかく、国定の最初では資本主義興隆期における近代的な教科書の性格を多分に持っていて、外国人からもほめられるというくらいの出来であった」(唐澤富太郎『日本人の教科書』)

教科書では愛国心や臣民観を強制していなかった

   明治維新になって洋風化が進んでいった明治初期の日本社会を変えていこうとの意気込みがあった。同時にそれまでの日本になかった公共機関、印刷物、汽車などによって作られた生活環境が説明されている。時代の推移を子供たちに説き明かそうというのであった。

   特に「修身」では、ワシントンやリンカーン、それにナイチンゲールなどについても詳しく教えている。前述の唐澤書によるならば、フランクリンについて最も詳しく教えているというのである。そこで強調されているのは、「自立」であり、「公益」であった。次いで取り上げられたリンカーンにしても、黒人解放の指導者としての人間像である。

   こうした内容を見ていくと、意外なことに児童・生徒には戦争のための愛国心や臣民観を強制していないことに気づかされる。意外なほど開明的であり、そして欧米風なのである。なぜこのような方針だったのかは、私なりに見ていくと二つの理由が挙げられるのではないかと思えるのだ。一つは子供たちの教育に時局の動きを利用しないとの判断があったことだ。戦争はある時期の一時期の現象であり、それを中心に児童・生徒の教育に当たるのは間違いだとの認識があったということであろう。もう一つは 、政治指導者や軍事指導者が恐れるほど国民の間に反戦意識や厭戦意識はなかったのである。

   国民は指導者の考え方に大体が不満を漏らさずに追随する形になっていた。あえて子供達への心構えを教えなくても、社会全体が指導者に従うとの判断があったとも言えるように思える。この二つの理由によって、教科書の崇高さが保たれていた。ところが日露戦争の終結後、国民の意識は一変する。政府批判が始まるのである。すると教科書は1910(明治43)年に再度改定されている。一転して忠孝を軸にした天皇制国家の教科書となっていく。政府批判を封じ込めるための愛国教育であった。(第45回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『吉田茂』(朝日選書)、『昭和史の本質』(新潮新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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