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外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(12)
ノーマ・フィールドさんと考える「人種・核・ウイルス」

   新型コロナウイルスは、今なお米国で感染拡大を続けている。今回のコロナ禍で際立っているのは、アフリカ系の黒人の死が、他のグループの2倍に達し、社会的不平等の断層線を浮き彫りにしたことだ。コロナ禍が突き付けたアメリカ社会の現実とは何か。どうしても、お話をうかがいたい学者がいた。2020年6月28日、長くシカゴ大で教鞭をとってこられたノーマ・フィールドさんにZOOMでインタビューをした。

  • ノーマ・フィールド「いま、<平和>を本気で語るには」(岩波ブックレット)
    ノーマ・フィールド「いま、<平和>を本気で語るには」(岩波ブックレット)
  • ノーマ・フィールド「いま、<平和>を本気で語るには」(岩波ブックレット)

沖縄を通して

   ノーマさんとは、直接お目にかかったことがない。それなのに、いつも身近に感じてきた方だった。それは、共通の知人である比屋根照夫・琉球大名誉教授を通して、この20数年来、その消息を伝え聞いてきたからだった。シカゴ大で在外研究を行った比屋根先生は、日本や日本文化の研究をしていたノーマさんと出会い、家族ぐるみの交流を続けた。そのご縁もあって、ノーマさんが1988年に生まれ故郷の日本に帰り、昭和天皇の死去をめぐるルポルタージュを取材した際にも、沖縄で知己をご紹介するなどした。

   その成果は「天皇の逝く国で」(大島かおり訳、みすず書房)にまとめられ、すでに米国内では「源氏物語論」や漱石の翻訳で著名だったノーマさんの名は、日本でも広く知られるようになった。ちなみにこの本は、沖縄国体で日の丸を焼いた知花昌一さん、自衛官合祀訴訟で、夫の護国神社への合祀に抗った中谷康子さん、天皇の戦争責任に言及して狙撃された本島等長崎市長にスポットを当て、歴史を背負って膝を屈しないその姿勢から、「自粛」を強いる日本社会の構造を逆照射して、深い感動を与えた。全米図書賞を受け、日中韓などの編集者が選定した「東アジア人文書100」(みすず書房)にも選ばれている。

   その後、比屋根先生から、ノーマさんが小樽に住み、プロレタリア作家の小林多喜二について研究していると聞き、意外に思った。21世紀初頭に、劇画版を通して「蟹工船」が若者の間でブームになったとはいえ、「なぜ、いまなのか」という疑問が湧いたからだ。

   その疑問は、2009年に出た岩波新書「小林多喜二21世紀にどう読むか」で氷解した。ノーマさんは、非正規雇用やブラック企業で多くの若者が呻吟する社会を背景に、「共産党神話」や戦後の「政治と文学」論争などを通して偏見に染まった多喜二像を脇に置き、彼の作品そのもの、とくに初期の作品や手紙、親しかった人たちの言葉などを重視し、彼の人間形成に決定的だった小樽という地で一年暮らしてみることによって、自分なりの出会いを求めた。戦後の日本社会が見失った視点を、もう一度取り戻そうとしているのだ、と。

   その後、2011年の東日本大震災と、福島第一原発事故のあとで、私は初めてノーマさんと接点を持つが、それは後で触れたい。

ノーマさんの「パリ5月革命」体験

   私は5月末に、シカゴに住むノーマさんにメールを送り、インタビューの申し込みをした。本コラム第8回で書いた「世界一の感染国アメリカはどこへ向かうのか」で、ノーマさんが現状をどう見ていらっしゃるのかをご紹介したかったからだ。しかし当時は、ノーマさんも「自粛」を余儀なくされ、ご自宅にこもる「非日常」の生活を送っていらした。近所に住む娘さんやお孫さんともZOOMなどで話すしかなく、むしろ、ご自分の「巣ごもり」を支えてくれる人々への「申し訳なさ」が先に立った。

   その後、何度かメールでやり取りするうちに、「少し落ち着いてきたから」と応諾してくださって、ZOOMインタビューが実現した。事前のメールのやり取りで、私が気になるノーマさんのくだりがあった。白人警官による黒人のフロイドさん殺害事件が起き、コロナ禍に加え、全米で「ブラック・ライブズ・マター」運動が広がった最近の動きに触れたあと、ノーマさんはこう書いていた。

「しかし、こんなにはやい歴史の流れは経験した覚えがありません。1968年の『5月革命』のときはフランスの大学にいましたが、まだ歴史が動くことがどれほど稀有なことか、認識していませんでした」

   著書などでに掲載された略歴によると、ノーマさんは「1974年にインディアナ大で東アジア言語文学修士を取得。来日して研究し、1983年にはプリンストン大で博士号取得」となっていて、大学やフランスの大学については触れていない。たぶん、その後のノーマさんの学風や行動の素地には、履歴に書かれていない若き日の「激動」が影響しているのではないか。インタビューでまずうかがったのは、そのことだった。

   ノーマさんは65年から69年までの4年間、カリフォルニア州にあるクレアモント・カレッジズの大学で学んだ。これは5つの大学、2つの大学院からなる複合大学で、ノーマさんが通ったのは、ピッツアー・カレッジだった。設立二年目、すべてをコミュニティ-全体で議論して構築する、という実験性に惹かれて選んだ。そこで68年、3年生の時に1年間、フランス東部の町ブザンソンに留学した。

   ブザンソンは、国際指揮者コンクールで知られる古都で、古代ガリア・ローマ期の史跡がある町としても有名だ。前年の秋、新学期に合わせてはじまったブザンソンでの生活は静かというより寂れた古都の暗さが印象的だった。それが春になり、お隣のドイツから激しい学生運動の便りが伝わってきたかと思うと、ブザンソンを含めて、フランス全土で「5月革命」なるものが起こった。ノーマさんはその雰囲気を肌で感じることになる。

「古い大学なので、門を閉めれば外界から孤絶する。そこで、学生は毎晩のようにワインやチーズを持ち寄って議論を続けました。ある晩には、『法学部と医学部のファッショ』が襲撃に来るというので、『戦闘位置につけ』という指示が出ました。『あなたは外国人だから負傷者の手当をしなさい』、と重たい木箱をポンと渡されて、落としそうになった。結局、その晩は何事もなく学生寮に帰りましたが、翌朝登校したら、廊下に血痕が残っていました。ブザンソンを去ってから知ったことですが、6月に入って、地域にあるプジョーの工場で初の労働者の死が記録されています。私はまだ若かったからでしょうか『革命に出会った』と漠然と興奮はしましたが、その歴史的価値をきちんと理解していなかった」

   当時はまだ欧州に、アメリカに対する文化的な優越感が残っている時代だった。それにベトナム戦争批判が重なった。下宿のおばさんやその知人に面と向かって、「私はアメリカ人は嫌い。でもあなたは半分日本人だから、まだマシ」といわれ、驚いたという。

   夜のキャンパスの集まりで、教師から、「マドモワゼル、米国に帰ったら、アメリカ人にいかに革命を起こすか、教えてあげなさい」と言われたが、帰国した米国は、さらに激変を遂げていた。

   母校の大学では、教授や学生を問わず、ベトナム戦争を中心に、幅広い問題について話し合う学内集会のティーチ・インが開かれた。留学前に寮で気軽な付き合いがあった黒人の女子学生は、当時の黒人差別反対運動に刺激されてのことだろうか、ノーマさんに対しても、とげとげしくなっていた。ベトナム反戦運動、公民権運動、ウーマン・リブ運動がごく短期間に重なりながら先鋭化し、歴史の激動がキャンパスを覆っていた。

   ベトナム戦争当時はまだ徴兵制が敷かれ、1969年から数年間、若者たちはクジで戦争に駆り出された。当時は、教職に就くと1年間兵役を猶予されたため、反戦運動に共鳴する若者の多くが教師になった。卒業後、結婚していた夫がメイン州の小学校に教師として赴任したため、ノーマさんもカナダ国境に近い人口900人の街に行き、フランス語の代用教員を務めたという。生徒の8、9割はカナダからの移民の子で、家庭は樹木伐採業だった。ノーマさんが日本で育ったと知ると、大家の娘さんが野菜を見せながら、真顔で、「ニンジン知ってる?キュウリ知ってる?」と問われるほど、外国の知識からは疎い僻陬(へきすう)の町だった。

   反戦は当たり前、と思っていたノーマさん夫妻は、大学の世界がいかに狭いものか思い知らされることになる。国旗に忠誠を誓う儀式を忘れがちな夫は「子どもたちに忠誠を誓わせないらしい」などと噂を立てられた。貧しい僻地では、国が起こした戦争に逆らう雰囲気はまだまだ乏しかった。反対を掲げることが特権的でありうることをはじめて知る体験となった。

コロナ禍で生じる激動

   「時代の激変期に、気楽というか、贅沢な青春を送った」というノーマさんだが、新型コロナの感染拡大から、1929年の大恐慌以来という不況が始まろうとしている今は、当時と同じか、それ以上の急速な変化を感じている。とりわけ、ジョージ・フロイドさん殺害事件を機に、「人種差別」への抗議の波が広がる動きは、60年代末期の状況に似ている、という。

   その最も身近な例は、インタビュー直前の27日、博士号を取得した母校のプリンストン大が、公共政策や国際関係論を学ぶ「ウッドロー・ウイルソン・スクール」を改称すると発表したことだ。ウィルソンは1902~10年に同大学長を務め、13~21年に大統領となった人物だ。日本でも、国際連盟の創立を呼びかけた人物として記憶され、米国は参加しなかったものの、その功績をたたえられて1919年にノーベル平和賞を受けた。

   いわば「母校の誉れ」ともいうべき人物だが、ウィルソンは学長時代に黒人学生の入学を認めず、大統領時代にも、人種隔離政策を支持していた。

   クリストファー・アイスグルーバー学長はプリンストン大コミュニティ-へのメッセージで、「彼の人種差別的思考と政策は、断固としていかなる人種差別にも反対すべき我々の研究機関の名前にはふさわしくない」と述べ、彼が大統領時代にとった連邦職員の分離政策は、それまで定着していた融合政策を逆戻りさせるもので、当時の基準に照らしても重大なものだったと指摘した。

   これには前史がある。2015年11月には、ウィルソンの名前を外すよう求めた学生の活動家が学長室を占拠する事件があった。その後、同大は、ウィルソンの言動を歴史的に検証する委員会を設けてきた。だが、フロイドさん殺害事件が起きて、米国に残る人種差別がいかに深刻かを知り、理事会に採択を提案したのだという。

「私も学んだ大学だったので、これには驚きました。ウィルソンの功績は認めても、人種差別に基づく価値観や政策は許さない、すくなくとも、『許している』と思われることは不利、という判断の表れでしょう。1993年に細川護熙首相が日本の『侵略行為』に初めて、あっけなく言及した時のような驚きでした」

   68年当時と違って、今回の「ブラック・ライブズ・マター」の特徴は、黒人だけでなく大勢の白人が抗議に参加し、それがとりあえず続いていることだ、とノーマさんはいう。背後にはパンデミックの影響があるにちがいない。これまでにない数の人たちが時期を同じくして社会の不条理を実感していることは見逃せない。大企業ですら、本心はともかく、人種差別反対を唱えざるを得ない雰囲気がある。

   この動きは、黒人差別反対だけでなく、広く歴史全般への見直しにもつながる兆しをみせている。

   すでにフロイドさん殺害事件後の6月9日には、米動画ストリーミングの「HBO Max」は、奴隷制を守ろうとした米南部が舞台の映画「風と共に去りぬ」の配信を停止し、その後の24日、当時の時代状況を説明するシカゴ大学でアフリカン・アメリカンの映画を専門とする教授の解説動画を冒頭に加えたかたちで配信を再開した。

   6月20日の「奴隷解放記念日」には、首都ワシントンで、「南部連合」のアルバート・バイク将軍の銅像が倒されたほか、南部ノース・カロライナ州でも南軍兵士の銅像が引き倒された。すでに6月7日には、英南西部のブリストルで、17世紀に奴隷貿易をして富を築いた商人の銅像を抗議の民衆が引き倒し、港に投げ込む事件が起きていた。

   さらに南部ミシシッピ議会は同28日、かつての南軍のデザインをあしらう州旗を変える法案を可決し、これで南軍旗はどの州旗からも姿を消した。

   また、米プロフットボールリーグ(NFL)のワシントン・レッドスキンズは、7月3日、先住民のネイティブ・アメリカンを指す「赤い肌」の名前を見直すことを決めた。これもまた、フロイドさん殺害事件から始まった人種差別反対の流れを受けた見直しだ。

   こうした歴史見直しのうねりが、自らの選挙戦に不利とみたのか、トランプ大統領は7月3日、初代ワシントンら4人の大統領の顔が岩山に掘られたサウスダコタ州ラシュモアの前で演説し、「我々の国は歴史を消し去り、英雄を冒涜する無慈悲な運動に直面している」と訴えた。さらにトランプ氏は、「暴徒が建国の父たちの銅像を倒し、各都市で暴力の連鎖を引き起こしている」と述べ、「偉人像撤去」の「新たな極左ファシズム」と戦い、厳しく取り締まる姿勢を示した。

公民権・反戦・環境・LGBTQ

   米紙ワシントン・ポストは6月25日付紙面(電子版)で、「なぜ新型コロナはシカゴの黒人社会を最も激しく襲ったのか」という記事を掲載した。それによると、3月16日で最初のコロナによる黒人の死者が報じられて以来、シカゴではコロナによる黒人の死者は1千人を超えた。これは10万人あたり136人で、白人市民の2・5倍にあたる。これは全米の「2倍」という平均値をはるかに上回る数字だ。

   昨年、ニューヨーク大学が、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)のデータをもとに分析した調査では、コロナ禍の前からすでに、南部の黒人居住区の住民の平均余命は、北部の白人多数居住区のそれよりも、約30年短かったという。コロナ禍は、それ以前からあった経済格差、医療格差を増幅したことになる。

   こうした町に長年住んできたノーマさんは、今回のフロイドさん殺人事件は、身に迫る問題として感じられた。

「殺害を記録した動画を見ました。いや、直視はつらくて、横目で、という感じですが。フロイドさんは、8分46秒の間、白人警官の膝に首を押さえつけられていた。逆に言えば、あの警官は人前で、8分46秒もかけて、同じ人間の息の根を自分の身体の一部を道具にして止めたのです。そこで思い出したのは、小林多喜二のことです。特高警察は築地署といういわば密室で3時間近くかけて拷問を加え、多喜二を殺しています。3時間弱と9分弱は数字としてはかなり違いますが、殺されるものにとって、目撃するものにとって、どちらもいたたまれなく長い時間ではないでしょうか。」

   たぶん、アメリカの市民を抗議に駆り立てたのは、間近に迫るその恐怖と、人間が虫けらのように扱われることへの瞋恚(しんい)だったろう。「それと、あの動画を見ることは、特殊な体験なのかも。人が徐々に、しかも無用に命を奪われることを目撃することは図らずもその行為に参加するような、潜在的な責任を感じるものではないか、とこのごろ思うようになっています。」

   フロイドさん殺害事件のあとに起きつつある激動について、ノーマさんは、68年当時に起きた変革と同じような、価値観をめぐる変化が起きつつある、という。

   68年のそれは、公民権・ベトナム反戦・ウーマンリブだった。今それは、公民権・反戦運動・環境問題・同性愛者の権利の運動などの相乗的な活動による変化だ。

   ベトナム戦争のあと、米国では徴兵制がなくなり、以前のように、一定の年齢層の若者すべてが直面する問題ではなくなった。だが、米国はその後も、毎年のように外国で武力行使を繰り返し、イラクやアフガニスタンのように、紛争地での長期駐留を続けている。ノーマさんは、ベトナム戦争のように、米国の若者の大多数が、直接巻き込まれる形での紛争がなくなっても、「戦争」はアメリカに戻ってくる、という。

「03年のイラク戦争に対する反戦集会に行った時、参加者の1人から、シカゴ市のホームレスの75%がベトナム戦争の退役軍人だという発言がありました。すでに92年の湾岸戦争の退役軍人も混じってきている、とも。いずれ、イラク戦争の帰還兵が加わるでしょう。戦争とそれに伴う『暴力性』は、米国でも貧困や薬物依存症の問題を招き、海外から還流する武器は、警察の武装強化に使われる。海外での『戦争』は、必ずアメリカ社会にも戻ってくるのです」

   環境問題について、ノーマさんはこの20年近く、核兵器と原発によって放射能の被害を受けた「ヒバクシャ」を追い続けてきた。

   核兵器と原発を繋げて考えるようになったのは、シカゴ大学の同僚で親しい友人となるシャロン・スティーブンズさんの体験を知ることにはじまった。シャロンさんはノルウェーの少数民族サミの人々の研究をしていたが、1986年のチェルノブイリ原発事故で彼らの生活が激変したことをきっかけに、原発による放射能被害の実態を調べ始めた。

   そのうち、シャロンさんは、子どものころから病弱でよく鼻血を流し、成人後もしばしば不良になる自分の体調が、幼いころに育った米西部ワシントン州のワラワラ市に関係があるのでは、と疑うようになった。同市は、米国が1945年に長崎に投下した原子爆弾を作る際、プルトニウムを製造して提供した地ハンフォードの風下にあるホット・スポットだった。シャロンさんは30代前半で重度の皮膚ガンが見つかり、手術を受けたが、チェルノブイリの調査のおかげで自分の被ばく体験に気づいたことに、感謝していたという。

   シャロンさんは1995年にノルウェーからアメリカに戻り、ミシガン大文化人類学・ソーシャルワークの助教授となったが、1998年にガンのために46歳で亡くなった。ノーマさんは、核兵器と原発の技術が隣接し、海外だけでなく米国内でも多くの「ヒバクシャ」を生み出してきた可能性に気づき、2004年からは大学で、「広島・長崎そして・・」という講義を続けた。

   原爆は、ノーマさんが幼いころから、米国人の父、日本人の母の間で、食卓での論争になったテーマだ。多くの米国人はいまだに、広島・長崎への原爆投下が、多くの米兵の命を救ったという「神話」を信じ、その被害を国内で訴えようとすると、第2次大戦の帰還兵らから抗議の声があがる。だが、原爆の製造に関わる全米各地でも、現実に多くの「ヒバクシャ」が生まれている。ハンフォードのように核施設が地域経済を支えている場合、被ばくの健康障害を訴えることは非国民呼ばわりを招きかねない。

   そうした講義を続けているうちに、2011年3月、福島第一原発の事故が起きた。

   私が最初にノーマさんにご連絡をしたのは、その翌月、彼女がシカゴ大で5月に、「原発」と「核兵器」を、ひと繋がりのものとして捉えるシンポジウムを企画していることを知ったからだ。その催しでは、2本の映画を上映して討議するという。科学者として原爆開発に携わった母親を描くM・T・シルビアさんの「アトミック・マム」と、上関原発計画に向き合う祝島の人々を描いた鎌仲ひとみさんの「ミツバチの羽音と地球の回転」だ。

   何度かのメールのやりとりでノーマさんにシンポの趣旨と、福島で起きていることをどう考えるか尋ねた。米国では今でも、「多くの米兵を救うためにはやむをえなかった」と原爆投下を正当化し、「さらなる大戦を防いだ」と冷戦期の核抑止力を評価する声が強い。そこから一歩でも脱け出るために、核実験や原発事故の被害を受けた「ヒバクシャ」を取り上げ、その催しも一年前から準備してきたという。

   福島原発について、ノーマさんは、当時こう書いた。

「この時期に日本にいないことがとても残念です。いかに情報収集をしても、原発近隣の人々の疲労、緊張、喪失感には想像が遠く及ばない。外で遊ぶことができない子ども、それを見守る親。妊婦の不安。お年寄りの心細さ。やはり想像を絶する」
「『帰る故郷がなくなった』という知人の言葉の重さは頭で分かっても共有できない。それが淋しくもある。運命を共有することによって生まれる絆もあるから・・・しかし緊急の場に置かれていないからこそ考える余裕があり、責任もあるはずです。原発での許し難い労働環境。すでに兆している差別の芽。地域に残り、とくに農業を続けようという意志が孕む矛盾・・・福島の原発事故は以前から直面すべき課題を私たちに突き付けている。根本的には、『平和』の質、つまり日常生活の質が問われているのだと思います」

   シカゴ大は、戦時中に原爆を開発したマンハッタン計画で、物理学者エンリコ・フェルミやレオ・シラードらが、初めて実験炉で持続する核の連鎖反応を実現させた重要な拠点だった。「核廃絶」を唱える当時のオバマ大統領がシカゴ大で教えた経験があったとはいえ、原爆や原発の「総本山」の一つで、その行く末に異を唱える催しを行うには、かなりの勇気が必要だったろうと思う。

   ノーマさんはその後もシカゴ大を拠点に、同じくシカゴにあるデュポール大宗教学部の宮本ゆき准教授、モンタナ州立大社会学・人類学准教授の山口智美さんらと、核と原発の被ばくを問うシンポジウムを開いてきた。

   その後、ノーマさんは被災地の福島をしばしば訪れ、残った人、避難した人々の双方との交流を続けてきた。今年も、3月には来日して福島の友人たちと話し合う矢先にコロナ禍が広がり、断念してZOOMで話し合っているという。

   今回、そのことについて話が及ぶと、ノーマさんは、「『天皇の逝く国で』と『小林多喜二』の仕事で身に着けた感覚が、福島を理解するうえで役立っている。いや、身に着けたものを、改めて福島から問われていると思います」と話した。

差別と偏見、そして圧力

   原発事故後の福島でノーマさんが見たものは、昭和天皇の死去に際して日本で広がった「自粛」の重さを想起させた。「福島の健康問題に触れることは、差別に加担することだ」という捉え方もあり、健康被害に触れることはむずかしい。

   去年9月19日、福島原発事故をめぐり、東京電力の旧経営陣3人が強制的に起訴された裁判の判決が、東京地裁で言い渡された。結果は3人全員が無罪だったが、その判決を傍聴したノーマさんは、忘れられない光景を目撃したという。

   幸いにも抽選で傍聴券を得て、地裁の建物に入った。この裁判は傍聴人の検査が厳しく、当初から問題になっていたのが一部解消されていたが、判決言い渡しの日は物々しさがすぐ伝わってきた。荷物はほとんど預けなければならないのだが、金属探知機を含む検査を数回経て、最後に身体検査。今までの男女別の一対一ではなく、一人につき3人ほどの警備員だったろうか。すぐ前か後の女性と警備員がなにか言い合っている。しばらくして、無事開廷を待つためのベンチに腰掛けたとき、もめごとの詳細を知った。女性は紺色の上着を身に着けていたが、ボタンを外した下のTシャツの文字、「忘れない!いつまでも」という言葉の一部がのぞいていた。「言葉の一部」といっても、実質的には文字の欠片で、その言葉を知らなかったら、なにが書かれているかわからない程だった。「ボタンをかけなさい」「かけると、暑くて倒れてしまう」と訴えたものの、いちばん上のボタンだけ残して、後は全部かけた。もうTシャツの襟すら見えない。「全部かけなさい」と要求する。すぐ応じないと、こんどは私服の背広姿の男が「それなら、別の部屋に行きましょう」と近づいてきたため、怖くなった女性はボタンをかけたという。「忘れない!いつまでも」は、吉永小百合さんの直筆で、Tシャツは吉永さんが賛同人でもある甲状腺がん子ども基金設立集会で販売されたものだった。後日知ることになったが、法廷で出会った工藤悦子さんはそこで購入し、いつも裁判に着ていったそうだ。

   これは目の前で展開した出来事だが、ノーマさんは以前にも、同じ裁判の傍聴で、黒地に白く鮮やかに「No.9」を染め抜いたTシャツを来た男性が呼び止められ、それを着たままでは傍聴できないと言われたことを本人から聞いていた。子ども脱被ばく裁判の原告団長・今野寿美雄さんといって、彼は裁判所という法の本拠地に国の憲法にある「9」条を表すTシャツを着ていくのを楽しみにしていたそうだ。上着はなかったので、結局、Tシャツを裏返しにして傍聴が認められた。ここ2,3年来、数字の「9」がついたアクセサリーや持ち物は国会や議員会館で引っかかる、と読んではいたが、実際目撃してみると、ほとんど滑稽で、しかもおぞましいことに思えてしまう。

「『9』、つまり憲法9条は『政治的』だからいけない、ということらしい。18歳で選挙権が認められるようになったとき、高校の先生が、生徒にいかに政治抜きで投票という行為を説明できるか、悩んでいる、という内容のラジオ番組を聞きました。政治と選挙を切り離すことなど、できるのでしょうか」

   2003年に個人情報保護法が成立した時から、ノーマさんは、個人が自由にものを言えなくなる社会がくるのでは、と危惧したという。それは、「天皇の逝く国で」の取材で、「自粛」が重しとなって、少数者の発言が抑えられたり、封じられたりするのを目の当たりにしたからだった。実際は少数者だけではないのかもしれない。思ったことを自由に発言できなくなる空気こそが少数者を作り出し、非難にさらすこともあるのではないか。

「福島原発事故でも、地元で健康や食の安全に対して不安を唱えると、いじめられたり、バッシングを受けたりするので、黙ってしまうお母さんが少なくない。ほんとうは多くの人々が同じ不安を抱えているのに。今回のコロナ禍で、差別や偏見の空気が強まることが怖いと思います」

   コロナ禍が広がるアメリカでは、感染したり亡くなったりした個人を特定して非難するような動きは見えていない、という。

「シカゴの地元の放送局は、しばらくの間、毎朝数分間、新型コロナで直近に亡くなった方々のお名前を読み上げていました。もちろん、ご遺族の承認を得てのことだと思いますが、地元コミュニティーでその死を悼み、コロナの脅威を身近に感じる時間になりました」

   「匿名社会」の日本では、まず考えられない。感染者数や死亡者が匿名の数字だけではその脅威も、遺族の思いも伝わらないだろう。それが私たちに、コロナ禍を他人事のように思わせている側面はないだろうか。

   もっとも、少数者を追い込むことも少なくないSNSなどの「匿名性」は、マイナスの方向ばかりではない。

   ノーマさんは、東京高検の黒川弘務・前検事長が、緊急事態宣言が出されているさなかに新聞記者らと賭けマージャンをしていたことを週刊誌に報道され、ツイッターによる辞任要求の世論の高まりを前に、辞任せざるを得なくなったことに注目する。

「今回のコロナ禍は、社会のさまざまな構造的問題をあらわにした。米国では、それがきっかけで大きな反差別の運動が起きていますが、日本ではどうなっていくのか。それを注目していきたい」

オバマ政権の総括

   最後に、シカゴが地盤だったオバマ前政権の8年間をどう評価するのか、ノーマさんに尋ねた。

「夫ともよく議論するのですが、彼は、黒人一家がホワイトハウスでいかにも『ふつう』に暮らす様子はアメリカ国民にとってとても大切だったという。ただ、私は、2期8年でやり残したことはたくさんあったと思う。オバマ政権は、経済の新自由主義にはあまり抵抗しなかったし、彼が目指した『核兵器のない世界』は遠のいた感すらある。民主党が上下院の多数をしめていた1期目に、もっと遺産になる成果を残せなかったのがとても残念。ただ、オバマ自身も先日、『自分が今、選挙に臨むなら、あの時とおなじ主張はせず、他のことを追求しているだろう』と語っていました。単に時代の流れを指しているのかも知れませんが、彼自身が、2期8年で不十分だったことを、認めているようにも聞こえました。」

   ちなみに、ノーマさんの夫は、アメリカ連邦環境保護庁で長年働いた法律家だという。

   アメリカでは、先住民の居留地では、部族の慣例法、州法、連邦法が三層で適用されることが多い。環境汚染や狩猟・漁業権などが争われるとき、州はとかく地域の利害関係に動かされることがあるが、一歩距離を置く連邦環境保護庁は、先住民側に立つ可能性を保持している、という。お目にかかったことはないが、たぶん、ノーマさんと同じく、リベラルな生き方を貫く方なのだろう。

   「源氏物語論」から、「天皇の逝く国で」を経て、「小林多喜二」へ。ノーマさんの仕事は、一見、脈絡なく展開してきたかのように映る。だが、「源氏物語論」は、王権論を踏まえた物語の解読だったし、「天皇の逝く国で」は、その問題意識の当然の帰結だった。「自粛」のただなかでも世間一般の常識に抗い、少数派であっても自分の信念に忠実な人々の記録は、戦前に言論統制で斬殺された多喜二の生き方にまで直結する。

   そう考えれば、日米のはざまで生きてきたノーマさんの姿勢が見事に一貫していることに気づかずにはいられない。それが、インタビューを終えての感想だった。

ジャーナリスト 外岡秀俊




●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。