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内田篤人に「鹿島の2番」託して十数年 名良橋晃氏が読み取った「ラストマッチのメッセージ」

   背番号には特別な思いが詰まっているものがある。鹿島アントラーズの「背番号2」はその1つ。鹿島のDF内田篤人(32)がつけていたこの番号は、同じ右サイドバックの元日本代表DF名良橋晃氏(48)から受け継がれたものだった。

   内田は現役ラストマッチとなった2020年8月23日の第12節・ガンバ大阪戦、同点ゴールを呼び込むロングボールを蹴り込んだ。「あのボールにはいろんな『メッセージ』が込められていたと思います」。名良橋氏に、「鹿島の2番」を託した内田への思いを聞いた。

  • 現役ラストマッチを戦った内田篤人(写真:アフロ/2020年8月23日撮影)
    現役ラストマッチを戦った内田篤人(写真:アフロ/2020年8月23日撮影)
  • 現役ラストマッチを戦った内田篤人(写真:アフロ/2020年8月23日撮影)
  • 名良橋晃氏(2019年6月撮影)

「2番は篤人につけてもらいたい」

   ベンチスタートの内田の出番は早々にやってきた。0-1の前半16分、DF広瀬陸斗の負傷で交代出場。痛めている膝をテーピングで固め、キャプテンマークを巻いた。

   後半アディショナルタイム、内田が相手陣内の浅い位置から斜め前に長いボール。こぼれ球を拾った鹿島は、MF荒木遼太郎(18)のクロスからDF犬飼智也(27)がヘディングで押し込んだ。試合終了間際の同点弾だった。緊急出場となった内田のラストマッチについて、名良橋晃氏はJ-CASTニュースの取材にこう振り返る。

「皆さん思ったかもしれませんが、『まだ現役でできるんじゃないか』というパフォーマンスでした。上手さがあり、(前半39分の)イエローカードをもらったシーンのような泥臭さがありました。最後のロングボールは『絶対入れてくれ』ということはもちろん、いろんな『メッセージ』が込められていたと思います。それを若い選手たちがゴールに結びつけたのは、篤人の『メッセージ』が伝わり、彼らがそれを受け取ったということだと思います。感極まりました」(名良橋氏)

   名良橋氏は06年に鹿島を退団する時、当時の鈴木満強化部長に「2番は篤人につけてもらいたい」と率直に伝えた。内田が翌07年から実際に「2」を背負っていたのを見て、名良橋氏は「良かった」と胸をなでおろしたという。そこには並々ならぬ思いがあった。

「僕の前に鹿島で2番をつけていたのは、僕がずっと憧れていたジョルジーニョでした。ジョルジーニョの退団に伴い、クラブから『お前がつけろ』と言われた時、2番に相応しい選手にならないといけないと強く思いました。非常に重い番号でした」

   ジョルジーニョ氏(56)はブラジル代表の右サイドバックとして90年イタリアW杯、94年米国W杯に出場し、米国大会は優勝を果たした名選手。名良橋氏は常々憧れを抱いていることを語っており、鹿島でチームメイトになってからも背中を追いかけた。

   その名良橋氏は98年フランス大会で日本初のW杯出場を成し遂げるなど、まさに日本を代表するサイドバックとなった。そして鹿島での最終年、清水東高から高卒で入団したのが内田だった。

「ターニングポイントになったと思う」W杯

「僕は鹿島を去る時、言い方が良いのか分かりませんが、『2番は軽い選手にはつけてほしくない』と思っていました。その中で、篤人はこれから飛躍する選手、無限の可能性がある選手だと思っていました。

当時は高校を卒業したばかりで体の線は細く、完成された選手ではありませんでしたが、スピード、走力、技術と、サイドバックとして求められるすべての資質を持っているプレーヤーだというのはすぐに感じました。それに、誰からも愛される、人懐っこい選手でしたね。気遣いもできるし、誰とでも合わせられる賢さもあり、多くの人を引き寄せられる人格者。アントラーズでレベルの高い選手とプレーすることで、これからもっと良さが引き出されていくんじゃないかと感じました。だから2番を託したいと思いました」(名良橋氏)

   内田は2番を背負い、Jリーグ史上初の3連覇を成し遂げる。10年にはドイツ・ブンデスリーガのシャルケに移籍。右肩上がりで成長し、日本代表にも10代で選ばれた。そんなサッカー人生で「篤人にとって、良い意味でも悪い意味でもターニングポイントになったと思う」と名良橋氏があげるのは、10年の南アフリカW杯だという。

「10代で当時の岡田(武史)監督から代表に選出されました。しかし、南アW杯予選までレギュラーだったのが、本大会ではサブに回りました。W杯にかける強い思いは4年後のブラジルW杯につながっていったと思いますし、南アの悔しさがあったから、ドイツ移籍後も成長し続けられたのではないかと、プレーを見ていて思いました」(名良橋氏)

   ブラジルW杯直前、内田はその後重くのしかかり続ける右膝のケガを負う。それでも本大会には3戦すべてに先発フル出場。1分2敗に終わった同大会の中で、日本代表としての意地を見せた。だがその後、実戦から1年9か月遠ざかるなど、年間通じて本来のパフォーマンスを発揮できる時はとうとうやってこなかった。

「タラレバですが、南アW杯にレギュラーで出ていたら、そこまで無理しなかったかもしれないし、南アの悔しさがあったからブラジルW杯はどうしても出たかったのかもしれない。本当にW杯への思いは強かったと思います。僕も現役時代、年を重ねるにつれて膝をケガしがちでした。でも篤人とは違う箇所だし、篤人のほうが厄介なケガでした。だからこそプレーできるようになったこと自体に驚きました。篤人は我慢強く耐えてきたんだと思います」(名良橋氏)

「自分もプレーで見せたいという思いが強かったでしょう」

   内田はラストマッチ後の引退スピーチ冒頭で、「鹿島アントラーズというチームは数多くのタイトルを取ってきた裏で、多くの先輩方が選手生命を削りながら、勝つために日々努力する姿を僕は見てきました」と述べ、「僕はその姿を今の後輩に見せることができない」と語っている。前出の「メッセージ」の意味はここにあるという。

「篤人本人が、プレーで見せられないと言っていましたね。それはアントラーズの選手たちが継承している姿勢。僕の時はジョルジーニョ、本田(泰人)さんや秋田(豊)さんたちがいました。篤人には小笠原(満男)や本山(雅志)、中田浩二らがいました。彼らの背中を見て育ったと思いますし、自分もプレーで見せたいという思いが強かったでしょう。しかし、できなくなってきた。そこに葛藤があり、(引退を)決断したのだと思います。篤人のプレーを見て、一緒に戦って、そのメッセージを受け取った今の選手たちがこれから引っ張っていかないと、新しいアントラーズは生まれないでしょう」(名良橋氏)

   内田はシャルケで22番、17年に在籍したウニオン・ベルリンでも2番をつけ、代表でも当初6番だったのが2番に変わった。内田がドイツに渡った10~17年、鹿島の2番は空席となり、18年の古巣復帰で内田が再びつけると、そのまま引退を迎えた。

   名良橋氏は内田に背番号2を託したことについて、「今は、僕がジョルジーニョと篤人に挟まれて幸せ者だなと、本当に思います。鹿島で2番をつけ、ドイツへ羽ばたき、鹿島に帰ってまた2番をつけてくれた。僕は一ファンとして嬉しく思いました」と感慨深く語る。では、次の鹿島の2番は?

「僕が決めることではありませんが、篤人が決めてほしいなというのと、少し相談してほしいなというのとありますね。ただ僕としては、まだ相応しい選手はいないという思いです。篤人がつけたことで、それだけ重みのある背番号になったなと思います」(名良橋氏)

(J-CASTニュース編集部 青木正典)