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外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(34)科学ジャーナリスト・尾関章さんと考える「科学報道」の落とし穴

   日々の感染者数や死者数から、ワクチンの接種状況まで、新型コロナについて報じられない日はない。だが、メディアは十全の機能を果たし、コロナについて正しく報じてきたか。「私たちの過去の医療報道には、大きく欠落した部分があった」。自戒を込めて問題を提起する科学ジャーナリスト・尾関章さんに話をうかがった。

  •    (マンガ:山井教雄)
       (マンガ:山井教雄)
  •    (マンガ:山井教雄)

欠けていた「社会」への視点

   尾関さんは早稲田大学大学院で物理を専攻してのち、1977年に朝日新聞社に入り、ヨーロッパ総局員(ロンドン駐在)、科学医療部長、論説副主幹などを務めた。2013年に退社し、14年4月から2年間、北海道大学客員教授になり、今は法政大で非常勤講師をしながらフリーのジャーナリストとして活動している。関心領域は量子力学など基礎科学が中心だが、医療や生命倫理など、守備範囲は広い。これまで「科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ」(岩波現代全書)、「量子論の宿題は解けるか」(講談社ブルーバックス)などの著書を発表する一方、読書ブログ「めぐりあう書物たち」を開設し、発信を続けている。

   実は尾関さんは、私と朝日新聞の同期入社で、共に働いただけでなく、退社後も年に一、二回は会って懇談してきた。科学だけでなく、思想・哲学などにも通じ、該博な知識と冷静な判断力のバランスが絶妙だ。科学が絡む大きな事件・事故に際しては過去何度も、彼の見方を自分の判断の指針にしてきた。その尾関さんに2月11日、ZOOMで話をうかがった。

   私が尾関さんに話を聞きたいと思ったのは、昨年6月、彼が言論サイトの論座に発表した「コロナ禍で医療報道ブームを自省する」という文章を読んでからだった。これまでの医療報道は「個」に寄り添ってその要請に応えてきたが、「公」の視点が欠けていたのではないか、という率直な反省である。現場の医療報道チームを長く率いてきた人だけに、その論文は、医療報道の構造的な問題を指摘している、と感じた。インタビューは、この文章をなぜ書こうと思ったのか、その動機への質問から始まった。

「きっかけは、コロナの感染拡大が始まった昨春、後輩記者が書いた記事でした。米国の研究結果などを紹介しながら、最良の感染防止策は『人との接触を断つ』ことであると伝えた内容です。その記事を読んで衝撃を受けた。筆者は、基礎医学や生命科学の専門知にも通じた有能な科学記者です。その記者が『最良の感染防止策は、人と2メートル程度の距離を置くこと』と書く。いわゆるソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)について初期のころに触れた記事の一つです」

   ではなぜ、その記事に「衝撃」を受けたのか。すぐには尾関さんの言葉の意味が分からなかった。

「あれだけ最先端の医学知識を蓄積した記者が、『2メートル』の記事を書く。そう書くしかないことへの驚きです。同じような衝撃はもう一つあった」

   それは、イタリアの作家パオロ・ジョルダーノのエッセイ集「コロナの時代の僕ら」(早川書房)を読んだ時の衝撃だったという。尾関さんは昨年5月2日付の読書ブログ「めぐりあう書物たち」に「物理系作家リアルタイムのコロナ考」という文章を掲載し、読後感を綴っている。

   ジョルダーノはトリノ大大学院で素粒子物理を学んだ理系作家で、同じように物理系出身であることから、尾関さんは以前から注目してきた。

   ブログによると、「仮に僕たちが七五億個のビリヤードの球だったとしよう」という一文で始まるエッセイには、次のような趣旨のことが書かれていた。

   球の一つひとつが、感染可能な人に相当する。一つの球を突くと、それは二つの球を弾いて止まる。弾かれた球は、それぞれが別の二つの球を弾き......という連鎖が生まれたとしよう。これこそが「感染」だ。「感染症の流行はこうして始まる」「初期段階には、数学者が指数関数的と呼ぶかたちで感染者数の増加が起きる。

   この一編には「再生産数」という言葉が出てくる。事象の連鎖による増え方を数値化したもので、ビリヤードの例では再生産数=2になる。

   尾関さんは、このエッセイを引用しながら、次のように書いている。

   ここで著者が強調するのは、再生産数が1より小さければ「伝播は自ら止まり、病気は一時の騒ぎで終息する」が「ほんの少しでも1より大きければ、それは流行の始まりを意味している」ということだ。これは数理の掟と言ってよい。

   今回の感染禍で、もともとの再生産数が1を超えることは、ほぼ間違いない。だからこそ、感染拡大が収まらないのだ。だが、「希望はある」と著者は断言する。本来の再生産数が1より大でも、現実の再生産数は「僕ら次第」で「変化しうる」。私たちが「伝染しにくい」状況をつくりだすことで「臨界値の1」を下回ることがありうる。「必要な期間だけ我慢する覚悟がみんなにあれば」「流行も終息へと向かうはずだ」。

   このどこが「衝撃」か、訝しく思う向きもおられよう。今や「実効再生産数」は日常用語になっているし、それを「1以下」にすることが収束への第一歩であることは、中学生も理解している。だが昨春の段階で、この単純な数値計算が何を意味しているのか、正確に理解した人はどのくらいいただろう。「感染を減らすには、私たちが人と距離を置き、行動を変えるしかない」という、私たちが第2次緊急事態宣言下で日々思い知らされている単純な事実だ。

   つまり、尾関さんの受けた「衝撃」とは、科学記者が日々蓄積し、追い続けた膨大な最先端医療の知見から、その「単純な事実」がすっぽり抜け落ちていたことへの驚きと、自省だった。

   尾関さんはそのころ、民放テレビで識者が、「日本の科学ジャーナリストの層が薄い」というコメントをしたのを聞いて、最初は内心反発した。

   しかし、その後、次のように考え直したという。論座の文章から引用する。

その後、そのひとことは私の心にグサリと刺さったままだ。今回のコロナ禍を見ていると、科学報道に長く携わってきた者として自省すべきことがあるという気がしてきた。今、コロナ報道に日々忙殺されている現役記者たちが悪いわけではない。むしろ、前世紀半ばから脈々と続いてきた日本の科学ジャーナリズム、医療ジャーナリズムそのものに弱点があったのではないか――そんな思いがある。

   科学記者経験者の多くが痛感したと思われるのは、新型コロナウイルス感染の急拡大期、最先端の医療にほとんど出番がなかったことだ。もちろん、例外はある。抗ウイルス薬が効いたという話はあるし、人工肺も重症患者の治療に生かされた......。ただ近年、科学記者が追いかけてきたゲノム編集や再生医療などとは方向性の異なるところに問題の核心があった。ワクチンや特効薬が開発されるまでの間、感染の広まりを阻む最大の決め手は人と人の接触を減らし、人と人を引き離すことしかなかったのである。

科学部から科学医療部へ

   昨年亡くなった私の先輩、柴田鉄治さんに「科学報道」(朝日新聞社)という著書がある。科学記者や科学部長の経験を踏まえ、戦後の科学報道の歩みや問題点を総括した本だ。

   それによると、戦後の科学報道の転機は1954年3月、改進党の中曽根康弘氏らが保守3党間でまとめた「原子力予算」に遡る。学会でも原子力の平和利用研究を始めるかどうか、議論が始まったばかりのころだ。

   しかもこの予算が急浮上した同じ日に、南太平洋ビキニ環礁の近くで操業していた漁船「第五福竜丸」の乗組員が米国の水爆実験による死の灰を浴び、帰港後の3月16日、読売新聞焼津通信部の記者がスクープを放った。

   こうして、最初の原子力予算の誕生と、初の水爆被災が重なり、戦後の科学報道は原子力を中心に動き出すことになった。

   読売新聞は54年の正月企画として社会部に取材班を作り、「ついに太陽をとらえた」という長期連載をしていた。これがビキニ被災の大スクープにつながった。担当記者たちが焼津通信部からの情報の重大さを的確につかみ、正確な記事に仕立てた。

   朝日新聞は50年代から「科学欄」を設け、学芸部に数人の「科学記者」を集めていたが、原子力のわかる専門記者はおらず、大慌てで原子力記者の養成に取り掛かった。折りからの「原子力ブーム」に応えるために各社科学部創設を急ぎ、朝日の場合は57年5月1日、部長1、デスク1、部員4の陣容で科学部を発足させた。この年10月にはソ連が世界に先駆けてスプートニク1号を打ち上げ、米国に「スプートニク・ショック」と呼ばれる衝撃を与える。ここから始まる米ソの宇宙開発競争が、科学部の重要性を際立たせることになった。

   その後、科学報道は様々な曲折をたどるのだが、このコラムでは取りあえず、コロナに直接関連する医療報道に焦点を合わせよう。

   尾関さんが科学記者になった1980年代、科学部で新米記者の多くが受けもたされるのは、健康相談欄だった。

   読者からの手紙やはがきに綴られた健康の不安や、病気の悩みを専門医に伝え、インタビューする記事だ。そのころからすでに、読者の求めに応じて最新の診断法、治療法を紹介することが、医療報道の原型とみなされていた。こうした報道姿勢は90年代に、いっそう強まった。

   それには三つの時代背景があった、と尾関さんはいう。

   一つは1990年、日本医師会の生命倫理懇談会が「『説明と同意』についての報告」という提言を出し、医療現場で「対話型医療」の機運が高まったことだ。

   それまでは、がんも患者本人には知らせず、どのくらい進行しているかなどは、家族や近親者のみに知らせるのが一般的だった。

   それが、医療現場では、患者が治療法の説明を受けたうえで一つの選択肢に同意する「インフォームド・コンセント」の流れへと切り替わっていった。その結果、なにごとも医師任せにせず、医療情報を自ら収集する患者が増えたのは間違いない、と尾関さんは言う。こうして医療報道の需要が拡大したのである。尾関さんは92~95年にロンドンに駐在し、科学情報を追いかけたが、帰国して、まさにその変容振りを実感することになった、という。

   第二は1995年に始まるインターネットの普及だ。それまで一般の人の医療情報といえば、医療機関から受ける説明を除けば、家に常備している家庭用の医学書などを参照する程度だった。しかしネットの普及と検索機能によって、個別の病気の具体的な知識、細分化された医療情報も入手できるようになった。デジタル・リテラシーが乏しい高齢者らは、ネットの代わりに、同じ情報を新聞に求めるようになった。

   第三は、20世紀後半、とりわけ世紀末から21世紀初頭にかけて顕著になった生命科学の進化だ。免疫など生体のしくみがDNAレベルで解き明かされ、さらにヒトゲノム解読で人間の遺伝情報の全体像が見えてきたことで、将来は個人別にふさわしい医療サービスを提供する「オーダーメイド医療」も夢ではない、と喧伝された。2000年代以降は再生医療やゲノム編集などの新技術が進展してバイオ系の科学技術はITや金融工学などと並び、将来産業の花形になると目され、政財界からも注目された。

   情報ニーズの変化に敏感なメディアが、こうした動向の変化に気づかないはずはない。21世紀にかけて、朝日新聞幹部は、教育・環境問題と並んで医療が報道の三本柱のひとつになると考え、大阪本社科学部長だった尾関さんにも部名変更の社内申立書を書くよう促した。「科学部」を「科学医療部」に改編して、医療報道に力を入れる、という方針だった。

   尾関さん自身は、医療も科学分野の一つと考えていたから、改称の必要を感じなかったが、「医療という看板を掲げることで科学報道の存在感を高められる」という思惑もあって、これに応じた。

   こうして朝日新聞は02年、「科学部」を「科学医療部」に改名した。それまで別刷り日曜版に載っていた健康面を医療面の名で朝刊本体に組み込んだのも、今も続く長期連載「患者を生きる」をスタートさせたのも、このころだ。

   その当時、ブームになった医療報道が目指していたのは、患者や患者家族一人ひとりの思いをすくいあげる記事の発信だった。そう尾関さんはいう。

   その象徴が「患者を生きる」だった。闘病というよりも病とつきあいながら生を充実させようとする人々に焦点をあて、新しい医療の選択肢を提示する試みだ。尾関さんは、これには読売新聞の長期連載「医療ルネサンス」という先行例があったともいう。「個」に寄り添う記事は、新聞が読者の心をつなぎとめる必須アイテムとなっていた。

   読者ニーズにこたえるこうした医療報道が間違っていたわけではない。だが、今回のコロナ禍で尾関さんが受けた「衝撃」は、こうして「個」に寄り添う紙面づくりに追われるあまり、「公」の視点から公衆衛生政策の不備を検証しようという方向性が希薄だった、という点に起因する。

「厚生省」から「厚労省」へ

   この問題には、メディアの取材体制そのものが深くかかわっている。

   私が東京本社の学芸部から社会部に移った1980年代の後半、社会部の「キャリア・パス」について先輩から教えられたことがある。社会部員になると、「方面」と呼ばれる警視庁の署回りに配置され、そこから警視庁、記者クラブか、検察・裁判所を担当する司法記者、都庁記者クラブに配属される。その後は「遊軍」になることが多いが、腕扱きの特ダネ記者は、文部省、厚生省、防衛庁担当に抜擢される。そこには政治部記者もいるが、多くは一人だけの各社精鋭の社会部記者が特ダネを競う激戦地だった。何しろ、全く医療や衛生の知識がなくても、朝夕刊の一面トップ記事をどれだけ出すかで、しのぎを削っていたのである。私自身、先輩から直接、「月に10数本は1面トップ記事を書いた」と聞かされたことがある。

   いわば厚生行政には素人の記者に、なぜそんな手品のようなことができるのか、当時の私にはわからなかった。

   だが、種を明かせば、簡単だ。先輩は「特ダネ記者」であり、特ダネ記者は分野を選ばない。取材源と人間関係を築き、勘を働かせて適時に働きかければ、他社に先駆けて明日発表のニュースを、今日入手することができる。つまり、事件・事故取材と何ら変わりない。

   もちろん、一つの役所を何年も担当すれば、その組織の所掌業務に精通し、問題点や疑問点もわかる。だが、各社が特ダネの草刈り場と位置付け、比較的短期に担当が入れ替われば、他社を抜く記者の辣腕度を評定する場になりかねない。

   かつて外務省は、政治部の専管だった。特派員経験者が属する外報部(国際報道部)の記者は外務省を担当せず、内政で経験を積んだ政治記者の独擅場だった。米国の国務省担当の大半が特派員経験者であるのとは対照的で、私もよく外国の記者にその理由を聞かれ、答えに窮した。21世紀になって、さすがに政治部から特派員になったり、相互の人事交流が活発化したりで、その慣行は崩れた。

   この二つの事例で私が言いたいのは、かつての新聞社では、取材源の省庁に食い込んで、他社を抜くことを最優先にし、専門知識や経験をもとに、その組織や政策の是非や良しあしをチェックすることが疎かになっていたのではないか、ということだ。

   私のこの危惧は、「公の視点で医療行政や厚生行政を批判・検証する姿勢が希薄だった」という尾関さんの自省に、重なる点が多い。

   すでに述べたように、医療ブームが高まるにつれ、21世紀には新聞社の科学医療報道の取材力は増強された。04年時点の東京本社科学医療部員数は、その30年前の東京本社科学部と比べてほぼ倍増していた。取材記者全般が縮小する中で、この増え方は突出している。

   その前の2001年、中央省庁の改編で、厚生省は労働省と一つになり、文字通り「揺りかごから墓場まで」、暮らしと働きを担う予算規模最大の巨大官庁になった。

   06年にロンドンから帰国した当時、私は厚労省クラブを担当する記者が14人いると聞き、絶句した記憶がある。私が80年代後半に司法記者クラブにいた当時、担当記者は5人に過ぎなかった。事情を聴くと、あまりに所掌事務が多く、重要な会合や部会で暮らしに直結する政策が決まるので、発表や会合取材をこなすだけでも、それぐらいの人手が必要なのだという。

   尾関さんによると、その厚労省ですら、朝日新聞社が科学医療記者を張り付けるようになったのは、2000年代の半ばになってからだったという。尾関さんはこう話す。

「旧厚生省の守備範囲は医療、薬事から福祉まで幅広かったので、腕っこきの社会部記者が八面六臂の活躍をしていた印象がある。その裏返しとして、科学記者は公衆衛生政策に深くは踏み込まず、PCRのような先端技術を感染症対策の文脈でとらえる科学ジャーナリズムの視点を紙面に反映できなくなってしまっていた。悔いが残る」

   科学医療部は「個」に向き合う最先端医療や患者に寄り添う報道に注力し、厚労省担当記者は役所の動向や発表を追うのに手がいっぱいだった。

   結果として、専門家や臨床医らを丹念に取材する記者が、厚労行政を検証し、批判的にとらえ直す態勢にはなっていなかった、ということではないだろうか。

PCR法とは

   尾関さんが、「科学医療報道に、公の視点が欠けていた」と考えるに至った最初のきっかけはPCR検査の問題だったという。

   尾関さんは現役時代からPCRについて関心を寄せ、コロナ禍が始まる前の2019年8月、やはり論座に「DNAで俗世間を変えた人キャリー・マリス死す」という文章を寄せている。その月に亡くなった米国の生化学者を追悼し、その業績の広がりがいかに社会を変えたのかを振り返る文章だ。その文章に沿って、PCRとは何かをおさらいしておこう。

   1953年、ジェームズ・ワトソン(米)とフランシス・クリック(英)は、DNA(デオキシリボ核酸)が二重らせんの立体構造をもち、そこに4種の塩基が暗号文字のように並んでいることを突き止めた。遺伝子の正体が姿を現した。この発見を踏まえて70年代前半に遺伝子組み換え技術が開発され、バイオテクノロジーが興る。発がんや免疫もDNAレベルで研究されるようになる。尾関さんが科学記者になった83年は、それが活況を呈した時期だった。だが、当時はまだ、DNAの塩基配列という情報のかたまりは、研究者やバイオ系技術者の手にあり、日常生活には縁遠い存在だった。

   尾関さんによれば、その状況を一変させたのが、85年、バイオ系ベンチャー企業に勤めていたマリスが開発した「ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法」だという。

   PCR法とは、ひと口でいえば「DNAの大量コピー法」だ。それは次のような手順を踏む。

1 DNAの「二重らせん」をかたちづくる鎖2本を加熱によっていったんほどく
2 鎖のコピーをとりたい部分に目印をつける
3 ポリメラーゼという酵素がその部分に絡みつくもう1本の鎖を合成する
4 その結果としてDNAの「二重らせん」が倍増する

   これを数時間かけて数十回繰り返すと、何百万ものコピーを手にすることができる。

   尾関さんによれば、ポイントは「わずか」を「大量」にするところにある。学者が検体から採りだせるDNAは微量で、そこから塩基配列の情報を得るのは至難の業だ。大量にコピーを取れたなら詳しく調べられる。実際、世界中の研究者がこの発明に飛びついた。

   朝日新聞で、PCRについて最初の記事を書いたのは尾関さんだった。名古屋市で開かれた89年の日本癌(がん)学会の事前取材で、「今回の目玉はPCR」と教えてもらい、記事にした。たとえば東京大学医学部第三内科のグループは、白血病患者のごく少数の細胞で起こる遺伝子変異を、PCR法で見つける試みを発表した。記事で尾関さんは、こうした動きを前文で伝え、「白血病の治療効果を確かめ、再発を防ぐのに威力を発揮する」というグループの見解を伝えた。

   「PCR旋風」はDNA情報を臨床医療に生かす契機となった。遺伝子診断や遺伝子治療の動きが本格化したのは、このころだ。90年夏には国際医学団体協議会が、愛知県犬山市などで国際会議を開き、遺伝子診断や遺伝子治療に対して当面の指針となる「犬山宣言」を発表している。

   論座論考「DNAで俗世間を変えた人......」によれば、「PCR旋風」は医療にとどまらなかった。たとえば、犯罪捜査。それまで、容疑者の特定には指紋の照合が頼りで、血液型は決め手にはならなかった。ところがDNA型鑑定は、PCR法を活用することで、容疑者をごく微量の遺留物からきわめて高い精度で割りだせるようになった。

   PCR法は、エンタメの世界にも影響を及ぼした。その象徴は、93年公開の映画「ジュラシック・パーク」だ。琥珀に封じ込められた蚊の体から微量の血液をとりだし、そのDNAをもとに恐竜の生体を復元する筋書で、これもPCR法抜きには発想できない。

   マリスは1993年、PCR法の発明でノーベル化学賞を受けた。

   尾関さんは、マリスの方法は、基礎科学分野のDNA構造解明から30余年後、その応用分野で開発された一つの技術に過ぎないが、社会の在り方を広範に変えたという意味で、ワトソン、クリックの発見に匹敵する偉業に思える、と結んでいる。

なぜPCR検査に限界があったか

   これほど広範に使われ、身近になったPCR法による検査が、なぜコロナ禍の日本では目詰まりを起こしたのか。問題はそこにある。

   尾関さんは、今回のコロナ禍で政府や自治体が最も批判されたのは、PCR検査の処理能力不足だったろうという。

「検査件数が限られているために隠れた感染者を見つけることが遅れ、結局は市中感染を広げた」

   そんな声が専門家の間から起こり、世論も同調した。

   今回の新型コロナウイルスのように遺伝子がRNAであっても、それをDNAに写しとれば複製できる。この方法で、微量の検体からでもウイルス遺伝子の存在を把握できるのだ。03年に重症急性呼吸器症候群(SARS)が近隣国で広まったとき、その感染の判定にPCR検査が使われた。だから、未知の感染症の蔓延を見込んで、いざというときに検査件数をふやせるようにしておくべきだった。そう尾関さんは指摘する。

   だが、実際はそうならなかった。09~10年に新型インフルエンザに広まったときもPCR検査の提供態勢は不十分だった。

   専門家を集めた厚労省の「新型インフルエンザ対策総括会議」は2010年6月の報告書で、感染症の発生動向調査(サーベイランス)の能力を高める具体策として地方衛生研究所のPCR検査体制などを強化することを求め、「発生前の段階からの準備」の必要を訴えていた。

   感染症対策の態勢づくりは、政府や自治体の仕事だ。だが、それが遅々として進まないのなら、ジャーナリズムがその実態を明らかにして加速を促すべきだった。

   しかし、科学ジャーナリズムはこうした「公」の問題に切り込む視点に欠けていた。それが尾関さんのいう「自省」なのである。

科学報道の落とし穴

   尾関さんの話をうかがって、私は昨春のPCR検査にまつわる報道を振り返ってみた。

   世界保健機関(WHO)は検査の重要性を説き、主要各国は競って検査能力の増強にいそしんだ。そんな中で、日本では厚労省がガイドラインを示してPCR検査を絞り込み、症状があるのに検査を受けられない人々の不安や焦りが報道された。

   だが、厚労省は、日本ではクラスターを追跡する手法を徹底させており、広範な検査で感染者を一網打尽に捕捉し、隔離するのは不要もしくは無益、という立場をとっていたかに見える。

   その理由として挙げられたのは、私が見聞きした範囲でいうと、次のような点だった。

○PCR検査には偽陽性や偽陰性がつきもので、精度に限界がある

○保健所はクラスター追跡に総力を挙げており、人的な余力がない

○効果的な治療薬やワクチンがなかった当時、感染とわかったとしても、有効な治療はできない。多くの人は無症状か軽症に留まっており、むしろ無用な混乱を招く

   テレビのワイドショーなどでは、検査数の少なさを指摘し、「検査を増やさねば、感染状況はわからない」とか、「クラスター追跡はいずれ行き詰まり、市中感染に対処できない」などの批判が相次いだ。

   もちろん、双方の考え方には一定の根拠と論理性があり、一概に是非は判断できないだろう。だが、メディアがそれを「両論併記」するだけでは、読者や視聴者は判断に迷い、疑心暗鬼にとらわれることになる。

   そのような時に、かつて厚労省が設置した新型インフルエンザについての総括会議で、PCRを含む検査態勢の強化を提言していたことを問題にしていれば、議論は違う展開になっていたのではないだろうか。

   実際、その後政府は遅ればせながらPCR検査拡充の方針に転じたが、その政策転換について、明確な理由を説明しなかった。この政策転換の時期や理由については、今後厳密な検証作業が必要だろう。

   科学報道に求められるものは、正確さや迅速さや「個」のニーズに応えるサービス精神だけでなく、読者や視聴者の「生命と健康」を守るために、必要な情報を取材し、政策への問題提起をする「公益性」にある。

   取材源の土俵で、取材源に食い込み、いち早く情報を取って他社を抜く。そうした慣行にとらわれることは、「科学報道」の本来の役割とはいえない。専門家や研究者の知見を踏まえ、政府や自治体の政策や対策の是非を判断するにあたって、重要な事実を提示し、問題提起をする。政治、経済、社会など他の事象を扱う分野と同じように、「科学報道」にとって最も重要なのは、その「公益性」だろう。

   尾関さんに話をうかがって、そんなことを考えた。

ジャーナリスト 外岡秀俊




●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。