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「今しかチャンスがない」 大学野球57歳のオールドルーキーは、「生涯フルスイング」で挑戦を続ける

「57歳のオールドルーキー。初陣となった名大との試合でレフト前へヒットを放つという鮮烈デビューを残した。是非背番号89(野球)を見にグラウンドへ足を運んで欲しい」

   愛知大学野球リーグ3部を戦う名古屋工業大学硬式野球部の公式ツイッターは、2021年2月末にとある「新人選手」を紹介。「すごいおっちゃん」「めちゃくちゃ応援してまう」と話題を呼んだ。

   選手の名前は、加藤文彦。普段は仕事をしながら大学の夜間学部に在籍し、土日に練習を重ねている。なぜ、彼は大学野球に挑戦することになったのか。J-CASTニュースは21年3月28日、名古屋のグラウンドで加藤選手に話を聞いた。

  • バットを構える加藤文彦選手
    バットを構える加藤文彦選手
  • バットを構える加藤文彦選手
  • チームでは若い選手とともにプレーしている

「すごく野球が好き」「チームの雰囲気が明るく」同僚たちの声

「ふるさと納税でもらった冷凍マグロの刺身を、朝に食べたんですよ。そうしたら、解凍が足りなかったみたいで。お腹を下したまま試合に臨んだんですが、幸運にもヒットを打つことが出来た。マグロで当たって、マグレでバットも当たったという感じですね」

   57歳の大学野球一年生は、「初ヒット」の記憶を冗談めかして振り返った。20年11月3日、名古屋大学とのオープン戦。実戦初出場となった加藤選手は、6回の初打席でレフト前へ流し打ち。ヒットを放った。

   左投げ左打ちで、背番号は89。「野球」とも読めるその番号は、子どもの頃から尊敬していた王貞治さんが、ダイエー・ソフトバンクの監督時代につけていたものだ。ともにプレーするのは、10代〜20代の若者たち。親と子ほどの年齢差がある加藤選手のことを、どう見ているのだろうか。

「(同期に50代の選手がいると知ったとき)とても驚きました。最初はコーチとしていらしたのかなと思っていました。でも、実際は選手としてバリバリやっている。すごく野球が好きなんだなというのは感じます。自分たちのモチベーションを引き上げてくれるような、そんな同期です」(同期入部・上田健生選手)
「練習でノックを受けている時も、一球一球、みんなが文彦さんに声をかけるので、チームの雰囲気が明るくなりますね。土日練習では、誰よりも早くグラウンドに来て、道具を準備してくれます。チームのために率先して動く姿勢は、他の下級生にもいい影響を与えていると思います」(キャプテン・横山大耀選手)

   加藤選手は「私にとって江川卓といえば『怪物』ですが、若い選手にとっては『テレビに出ている人』。自分が当たり前のように知っている選手が、他の部員の方には通じなかったりします」とジェネレーションギャップを口にする。

   彼はなぜ、若者とともに泥にまみれる道を選んだのだろうか。

「授業を受けて帰ってくるだけの日々」 輝いて見えた同い年の球児

   1963年5月6日、岐阜県で生まれた加藤選手。小学4年生の頃、地域のスポーツ少年団で軟式野球を始めた。当時の憧れは、「V9」(1965-1973)時代の巨人。中でも、絶対的主砲として活躍していた王選手への思い入れは別格だった。

「親に連れて行ってもらった中日スタヂアム(現:ナゴヤ球場、かつての中日の一軍本拠地)で、王選手のホームランボールが取れないかと、スタンドでずっとグローブを構えて待っていました。でも、それは叶えられませんでしたね」

   中学に入ってもしばらく軟式野球を続けていたが、あるとき、野球を諦めることになる。言葉がスムーズに出てこない「吃音」の症状が原因だった。自ずと口数が減り、周囲とのコミュニケーションが取れなくなっていった。「野球自体は好きでした。ずっと続けたかったです」。当時14歳、辛い決断だった。

   中学卒業後は、県一番の進学校・岐阜県立岐阜高校に進学。硬式野球部は甲子園の準優勝経験があり、西武の黄金期を築いた名将・森祇晶氏を輩出した古豪だ。しかし、当時の学生生活を「家から電車で高校に通って、授業を受けて帰ってくるだけの日々でした」と振り返る。

   テレビ越しに、輝いて見えた高校球児がいる。同い年の左腕で、後に日本球界を代表する大投手になる工藤公康(現:福岡ソフトバンクホークス監督)さんだ。工藤さんは愛知県の名電高校(現:愛工大名電高校)在籍時の1981年に夏の甲子園に出場。2回戦の長崎西高戦ではノーヒットノーランを達成し、大会を沸かせた。

「後から気づいたことでしたが、誕生日も自分と一日違い(工藤さんは5月5日)。羨望の眼差しで見ていました。憧れでした」

   土のグラウンドに立つことなく、加藤青年の夏は過ぎて行った。

「自分は自分だよ。周りを気にしても仕方ないよ」

   浪人後、滋賀大学経済学部に進学。琵琶湖のほとりで、野球とは無縁な学生生活を送ることになった。しかし、ここで人生を変えるような出会いが訪れる。

「ヨット部に勧誘されて、一人ずつ自己紹介をすることになりました。心臓バクバクで、緊張が最高潮に達していた時、隣の人が『自分は自分だよ。周りを気にしても仕方ないよ。大きい声で喋れば大丈夫』とアドバイスをしてくれました。助言通り、大きい声で喋ったら、問題なく話すことができた。アドバイスをくれたその人も、吃音の症状を持っていました」

   それまでも「言いづらい言葉を言いやすい言葉に変換して伝える」「心の中で『せーの』と助走をつけて喋る」など、吃音の影響を緩和するため工夫を重ねてきた加藤さん。ヨット部での出会いをきっかけに、気持ちの面でも楽になり、症状は改善に向かっていたという。

憧れの王貞治さんばりの一本足打法を見せる加藤選手
憧れの王貞治さんばりの一本足打法を見せる加藤選手

   大学卒業後は公務員として就職。職場では、学生時代に諦めた軟式野球部に入った。結婚して、家庭も持った。順風満帆とも思える生活を送っていた50代半ば、首相官邸が掲げる「人生100年時代構想」に心を突き動かされた。

「いくつになっても新しい学び、新しいチャレンジができる。ならば、高校時代からの憧れだった硬式野球をやりたい。ただ、60歳、70歳になったら体力的に厳しくなる。今しかチャンスがないと思いました」

仕事がある日も厳しいトレーニング...それでも「苦にならない」

   加藤さんは、自宅から通える国立名古屋工業大学を受験。社会人枠や聴講生枠としてではなく、野球部に入部できる一般入試枠を選んだ。他の若者と一緒にセンター試験、2次試験を受験し、工学部第二部物質工学科に合格。2回目の大学生活がはじまった。

   入学した「第二部」は、仕事をしながら夜間に勉強ができることが特徴だ。平日は仕事で練習ができないが、土日の練習には参加している。ただ、周囲の若手との体力差、慣れない硬球への対応には苦労をしたという。

「ダッシュでフライングしてスタートしても、若い選手に抜かされる」
「ノックで飛んできた硬球が顔に当たって、鼻血が出たこともありました」

   周囲との差を埋めるため、加藤選手は努力を惜しまない。仕事がある平日は朝4時30分に起床。1時間ほど近所の公園をランニングしたあと、出勤前には洗濯の時間を使って「素振り」をする。職場の昼休憩では昼食を済ませた後、近所にある山で45分走り、また仕事へと戻る。土日は、練習とは別に体育館でスクワットやランニングマシンでトレーニングをこなす。ストイックな日々だが、加藤選手は「苦にならない」と語る。

「バッターボックスに立つのは私一人。ネクストバッターズサークルにいる時は心臓バクバクですが、代打で呼ばれると気合が入る。その緊張感がたまらないです」

   大好きな野球ができる。その喜びで、加藤選手の毎日はあふれている。

「60歳になっても、フルスイング」

   11月のオープン戦で初ヒットを打った加藤選手は、その後のOB戦でもタイムリーヒットを放った。自身のバッターとしてのスタイルを、どう捉えているのか。

「ストライクが来たら、最初からフルスイングをすることしか考えていません。2ストライクを取られるまでは、ライトスタンドの方を見ています」

   吃音の影響もあり、今もベンチからの「声出し」がうまくできないことがあるという加藤選手。それでも「みんなのマネをしながら、オウムのように喋ればいい。みんなの声に合わせれば、大丈夫」と前向きに話す。

「若いみんなと野球ができて、本当によかったなと思います」

   4月からは春季リーグがはじまる。57歳での公式戦出場に期待もかかっているが、本人は「出場してヒットを打つことよりも、大事なのはチームが勝つこと。3部で優勝して、2部に昇格する。それが一番の目標です。試合に出なくても、ランナーコーチだったりバット引きだったり、できることをやるだけです」と謙虚に語る。

   このまま行けば、4年生のときには60歳を迎えている加藤選手。還暦になって、どんなプレーヤーでいたいか――。最後に聞いてみた。

「来た球をフルスイングできるバッターでいたいです。60歳になっても、フルスイング。生涯、フルスイング。そのためには、日々の鍛錬を重ねて、好きな野球が続けられるようにしたいです」

   遅れてやってきた男の「球春」は、まだ始まったばかりだ。

名工大硬式野球部の選手たち。最前列中央が加藤選手
名工大硬式野球部の選手たち。最前列中央が加藤選手

(J-CASTニュース記者 佐藤庄之介)