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「邦字新聞」もう風前の灯火? 読者高齢化にコロナが追い打ち、紙版の廃刊続く

   世界最大の日系人社会があるブラジルで唯一の邦字紙だった「ニッケイ新聞」(サンパウロ市)が2021年12月18日付の紙面を最後に廃刊した。日系一世の高齢化が進んで読者が減少する中、コロナ禍が追い打ちをかけた。

   ただ、22年1月には日本の実業家が出資して立ち上がったNPO法人が「ブラジル日報」を創刊予定。実質的な後継紙で、数少ない日本語メディアがかろうじて継続することになった。

  • ブラジルでは日本語が話せる人の高齢化が進んでいる(写真はサンパウロ市の東洋人街にある大鳥居)
    ブラジルでは日本語が話せる人の高齢化が進んでいる(写真はサンパウロ市の東洋人街にある大鳥居)
  • ブラジルでは日本語が話せる人の高齢化が進んでいる(写真はサンパウロ市の東洋人街にある大鳥居)

敗戦めぐるテロ事件を機に生まれた戦後の邦字紙

   日本からブラジルへの移民が始まったのは1908年。16年8月にブラジル初の邦字紙「週刊南米」が創刊された。20年代後半~30年代に移民の最盛期を迎え、邦字紙の数も増えたが、41年8月には「外国語新聞禁止令」が出され、全邦字紙が廃刊を余儀なくされた。日本語の新聞が再び発行できるようになったのは、新憲法が制定される46年のことだった。

   終戦後には、日本の敗戦を信じない「勝ち組」(戦勝派)と、信じる「負け組」(認識派)による対立が激化。テロ事件も起き、20人以上が犠牲になった。

   46年10月には現地紙の付録として「サンパウロ新聞」が創刊されたのに続いて、47年1月に「パウリスタ新聞」が創刊。これが「ニッケイ新聞」の前身で、同紙ウェブサイトによると、「『正しい情報を伝えなくては事態は収束しない』との思いに燃えた同胞社会を憂う有志」が集まって創刊された。その後、「勝ち組」幹部をめぐる記事の扱いで内部抗争が起き、分派する形で49年1月に「日伯毎日新聞」が創刊された。

   その後、移民船による移住が73年に終了。一世の高齢化もあって日本語が使える読者も減り、98年3月に「パウリスタ新聞」と「日伯毎日新聞」が合併して「ニッケイ新聞」になった。その後、2018年12月に「サンパウロ新聞」が廃刊になり、「ニッケイ新聞」がブラジルでは唯一の邦字紙になっていた。「ニッケイ新聞」最終号に「さようなら、ニッケイ新聞!」と題して掲載されたコラムでは、廃刊の経緯を

「この3年間、ブラジル最後の邦字紙として『ロウソクの火を吹き消さないように』という心細い感覚で、注意深く突風を避けて怖々とやっていたところに、パンデミックという超巨大台風が無慈悲にも襲った感じだ」

と説明している。

「『重病と老衰で余命あと1年』と宣告されていたのに...」

   ただ、22年1月4日に「ブラジル日報」の創刊が決まっている。発行するのは、NPO法人「ブラジル日報協会」。外国人の人材派遣業などを手掛けるアバンセコーポレーション(愛知県一宮市)の創業者で、移住者や帰国者の支援をする一般社団法人・日本海外協会(東京都港区)の代表理事を務める林隆春氏が出資して立ち上げた。「ブラジル日報」は「ニッケイ新聞」の過去記事の権利や購読者情報を引き継ぐことになっており、実質的な後継紙だ。

   「ニッケイ新聞」コラムでは、この感覚を「『重病と老衰で余命あと1年』と宣告されていたのに、突然、神さまが夢枕に立って『若くて健康な別人の身体を与えよう』と言われたような不思議な感覚」だと表現。「襟を正して『日系社会の未来』に今まで以上にまっすぐに向き合う必要性を感じる」とつづった。

   現時点で紙媒体の発行が続いている邦字紙は世界中で25紙程度。コロナ禍の影響を受けたのは「ニッケイ新聞」だけではない。カナダの「バンクーバー新報」(1978年創刊)が20年4月に紙媒体を廃刊、ウェブサイトに移行した。フィリピンの「日刊まにら新聞」(1992年創刊)も、21年いっぱいで紙媒体の発行をやめ、電子版のみの発行になる。

(J-CASTニュース編集部 工藤博司)