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明治憲法の謎、「最大のトリビア」はコレだ

西園寺公望

 「最後の元老」といわれた西園寺公望(1849~1940)。これまでにも様々な本が出ているが本書『西園寺公望―― 政党政治の元老』(山川出版社)は、なぜ「彼が最後の元老になったのか」ということに絞って詳述している。著者は歴史学者で京都橘大学教授の永井和さん。「日本史リーフレット」シリーズの一冊。比較的薄くて写真なども豊富なので読みやすい。

有力元老が次々と他界

 元老というのは「勅語」をもとに天皇みずからが指名した天皇の最高顧問のこと。大正時代は、山県有朋、井上馨、大山巌、桂太郎らがいたが、1924(大正13)年に松方正義が他界すると、西園寺を残すのみとなった。したがって「最後の元老」といわれた。

 元老は単なる名誉職ではない。国家及び皇室の重大事に関して天皇の諮問があれば、何であれ、それに答えなければならない。永井さんによれば、元老だけにあたえられた権限の中でもっとも重要なのが、内閣総理大臣の人事について天皇の諮問にこたえ、候補者を推薦することだった。

 本書を読んで、トリビア的に驚いたことがいくつかあった。まず一つは、明治憲法には総理大臣の任命の方法が記されていないということ。それどころか内閣総理大臣という言葉も登場しないそうだ。虚を突かれた感じがする。もちろん元老についても何も記されておらず、「元老」という言葉も出てこないという。しかしながら明治憲法のもとでは、元老と呼ばれる特定の人物が首相選定という機能を担っていたというから、ますますワケが分からなくなる。迷宮のような世界だ。

二度も首相を務めた

 明治時代はしばしば、辞任する首相が後任を指名していたという。立憲君主制なのだからこれは好ましくない、というのが元老による推挙が定着した一因のようだ。しかし大正の末期、元老が減り、高齢化する。そこで元老以外の「重臣」も協議に参加させる「元老・重臣協議方式」が採用された。いわば将来の元老候補を交えた協議方式だが、続かなかった。そのあたりについては本書で詳述されている。

 西園寺が最後の元老になったのはなぜか。昭和天皇が新たに元老を指名しなかったからだが、それは西園寺自身が元老の再生産を希望せず、自身が健在のあいだは「一人元老制」で行く決心をし、天皇の側近で内大臣の牧野伸顕も同意したため、と著者は書いている。背景としては、政党内閣制が定着して、特権的な元老よりも、皇室令によって職務を定められている内大臣が天皇補佐の機能を担うのが正道との認識に立っていたこと、加えて元老後継者として西園寺の眼鏡にかなって、万人を納得させるほどの有力者がいなかったことなども挙げている。

 西園寺は明治の初めに約10年間もフランスに留学、伊藤博文の腹心と言われ、二度も首相を務めた。パリ講和条約の主席全権でもあった。その経歴、国際感覚、存在感は、明治の元勲が相次いで他界した昭和初期、圧倒的なものがあった。

 首相選定方式はしかしながら西園寺が高齢になると、また様変わりする。元老よりも内大臣が主体となる「内大臣・元老・重臣協議方式」、さらに1940(昭15)年以降は元老抜きの「内大臣・重臣協議方式」に移って行った。そして敗戦となり、新憲法のもとで劇的に変わる。誰もが当たり前と思っている今の姿に行きつくまでに、不可思議な時代があったということを改めて想起できる本だ。

  • 書名 西園寺公望
  • サブタイトル政党政治の元老
  • 監修・編集・著者名永井和 (著)
  • 出版社名山川出版社
  • 出版年月日2018年3月17日
  • 定価本体800円+税
  • 判型・ページ数A5判・104ページ
  • ISBN9784634548909
 

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