読むべき本、見逃していない?

日本にも「少年ゲリラ兵」1000人がいた

  • 書名 陸軍中野学校と沖縄戦
  • サブタイトル 知られざる少年兵「護郷隊」
  • 監修・編集・著者名川満彰 (著)
  • 出版社名吉川弘文館
  • 出版年月日2018年4月18日
  • 定価本体1700円+税
  • 判型・ページ数B6判・239ページ
  • ISBN9784642058667

 本書『陸軍中野学校と沖縄戦』(吉川弘文館)のタイトルを見て、中野学校と沖縄に何の関係があるのかと疑問に感じる人も少なくないだろう。中野学校が得意とするのは諜報戦。沖縄は米軍と対峙した大規模な地上戦。ところが両者には、きわめて密接な関係があった。

 結論を一口で言えばあまりに悲惨、あまりに無責任。日本軍がいかに沖縄をぞんざいに扱っていたか、改めて痛感した。

驚くべき死亡率

 6月は太平洋戦争の沖縄戦が終結した月だ。国内で唯一、凄惨な地上戦が大規模に繰り広げられた沖縄では、子どもたちも兵士として動員された。正規軍に組み込まれたのが、「鉄血勤皇隊」。14~16歳の学徒による少年兵部隊だ。師範学校や旧制中学の生徒が中心だった。1780人が動員され半数の890人が戦死した。驚くべき死亡率だ。

 これとは別に、沖縄に派遣された陸軍中野学校出身者によって組織された特殊な子ども組織があった。「護郷隊」。いわばゲリラ部隊だ。青年学校などに通う14~17歳が対象だった。1000人近くが召集され162人が亡くなったとされる。こちらも約6人に1人の死亡率だ。

 中野学校は1940年に正式に発足した。諜報活動で知られる。同時に「遊撃隊員」の養成も行われていた。正規軍とは別に活動で後方かく乱や奇襲など、いわゆるゲリラ戦を旨とする。41年には参謀本部直轄になり、卒業生が東南アジアなどに送り込まれていた。卒業生は約2500人といわれ、戦況が悪化する中で44年9月以降、42人が沖縄入りする。

 沖縄を守備する第32軍の役割は、当時すでに「本土決戦までの時間稼ぎ」となっていた。そこに投入された中野学校卒業生の任務も同じだ。しかも「沖縄が玉砕した後も生き残り、遊撃戦を続けろ」という命令。卒業生のリーダー格は「無理です」と答えたそうだが、反抗は許されない。沖縄では兵士が不足しており、「子ども」が動員されることになる。

離島に残置諜を潜り込ませる

 秘密厳守の中野学校主導ということもあったのだろう、長年、「護郷隊」については詳細がわからなかった。2015年、NHKスペシャルが「あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白~」という「護郷隊」を主人公とした番組を放映たことで、ようやく存在が広く知られるようになる。この番組作りに協力したのが、本書の著者で、名護市の市史編さん係嘱託職員の川満彰さんだ。沖縄大学大学院で沖縄・東アジア地域研究を専攻した研究者だ。

 本書の約半分は、この「護郷隊」についての記述に費やされる。主に沖縄本島に送り込まれた中野学校出身者たちが大規模に組織し、少年隊員たちは沖縄中北部を守る戦いに組み込まれた。10代半ばで銃を持ち、米軍相手に至近距離で殺傷戦を経験したわけだから、今の中東やアフリカの少年ゲリラみたいなものだ。山の中を走り回り、時には瀕死の友を置き去りにして逃げざるを得ない。しかも同じ村、同じ小学校の仲間たちだ。生存者たちは語りにくい過去を持ち、戦後もトラウマに悩まされる。これも研究が遅れた理由だろう。ほかにもいくつもの事例が紹介されているが、民間人を巻き込む地上戦の実相とはどういうものなのか、それを子どもが体験するというのはどういうことなのか、本土での空襲体験とは全く異次元の凄まじさがある。

 NHKの番組スタッフも2年ほど前に、新潮社からノンフィクションとして単行本を出しており、内容的に重なる部分もあるが、本書は研究書の色合いが濃い。とりわけ、離島の「残地諜者」については詳しく記されている。沖縄に送り込まれた中野学校出身者のうち10人ほどは、与那国島、久米島など沖縄本島以外の小さな島にバラバラに派遣された。名前を変え、職業は主に教員として、島に溶け込もうとする。そして島民を戦闘員に仕立て上げ、米軍が上陸してきた場合は遊撃戦を戦わせる、あるいは、占領後も後方かく乱作戦をする要員にしようとしたのだ。

 島民への指示は強腰になったり、無理筋になったりしたこともある。それが島民に被害をもたらし、恨まれたケースも少なくない。

昭和17年4月、「負ける」と思った

 激戦の末に沖縄は敗れ、「護郷隊」や「残地諜者」の活動は奏効せず、日本も敗れて中野学校卒業生たちも投降するなどして、ほどなく本土に戻ることになる。著者は、「護郷隊」に召し上げられた人や、生き残った何人かの中野学校卒業生たちに話を聞いて、沖縄で中野学校が何をしたか丹念にたどっている。

 その中で興味深い証言があった。著者が、長生きした中野学校卒業生の一人に、「日本は負ける」と思ったのはいつごろか、と聞いたところ、「昭和17年(1942年)4月18日」と答えているのだ。米軍16機が本土初空襲。日本軍は高射砲も撃てない。しばらくして日本軍の練習機が一機飛んできた。その様子を目撃して、これは駄目だ、日本は負けると思ったという。

 太平洋戦争の分かれ目は、一般には昭和17年6月のミッドウェー海戦と言われているが、もっと早く「敗戦」を予感した軍人もいたわけだ。それから本当の敗戦まで約3年4か月。この間に失われた膨大な人命は何だったのか。空しさが募る。

本土決戦、本気だった

 本書の最終章では「中野学校と本土決戦」について書いている。それによると、戦争末期には本土決戦に備え、全国各地に500人以上の中野学校卒業生が配置されていたという。奇しくも沖縄が敗れた6月23日には、「義勇兵役法」が制定された。本土でも15歳以上の男子、17歳以上の女子を戦争に動員できるようになった。沖縄の少年兵システムを全国に拡大しようとしたようだ。

 陸軍などがポツタム宣言受諾に反対し、本土決戦を主張したことはよく知られている。映画「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督)を見た人なら、血相を変えて「本土決戦」を主張し、クーデターに突入していく青年将校らの姿を思い出すことだろう。「もうあと二千万、日本の男子の半分を特攻に出す覚悟で戦えば、日本は必ず勝てます!」。そんな、今から考えると常軌を逸した絶叫もあったと思う。すでに中野学校出身者たちが本土各地へ分散配置されていたことや、「義勇兵役法」のことを考えると、決戦は空論ではなく、準備は着々と進んでおり、軍は本気だったのだと知る。NHKの本ではそのあたりが具体的に記されている。

 そういえば「日本のいちばん長い日」では、45年8月9日の最高戦争指導会議のやり取りも再現されていた。ポツタム宣言にどう対応するか。鈴木貫太郎首相は「広島の原爆といい、ソ連の参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能と思います」と切り出す。このとき、すでに玉砕し、占領されている沖縄のことは首相の脳裏から消えていた。他の出席者からも発言がなかったと記憶する。県民4人に1人、なかんずく前途ある多数の少年たちの犠牲者まで出したにもかかわらず、沖縄は単なる「捨て石」だった。

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