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漱石は熊本で無能教師を放逐していた

  • 書名 漱石がいた熊本
  • 監修・編集・著者名村田由美 著
  • 出版社名風間書房
  • 出版年月日2019年5月15日
  • 定価本体2300円+税
  • 判型・ページ数四六判・330ページ
  • ISBN9784759922837

 夏目漱石は英国留学の前、旧制第五高等学校(熊本市)の教授として4年3か月、熊本に暮らした。この間、結婚し、長女が生まれ、俳句を作り、寺田寅彦を教え、『草枕』や『二百十日』の素材になった小天温泉や阿蘇を旅した。作家になる前の、いわば雌伏時代だが、漱石の生涯を知るうえで重要な日々である。本書『漱石がいた熊本』(風間書房)は、熊本在住の研究者が熊本時代の漱石の足跡を詳細に調べた労作。新聞連載(西日本新聞熊本県版)をまとめた著作ゆえ、一般向けに書かれているが、五高の資料や当時の地元新聞などを丹念にあたり、これまでの定説や俗説に疑問を呈すなど、なかなかポレミックな内容でもあり、読み応え十分だ。

「文部省第一回給費留学生」ではなかった

 漱石の英語力は学生時代から抜群で、「方丈記」を英訳し、外国人教師から褒められてもいる。松山中学や五高の学生が、授業レベルの高さに敬服した逸話も多い。校内行政や人事でも有能だったらしく、五高赴任翌年には英語科主任になった。その仕事で福岡県や佐賀県の中学校の英語授業を参観する出張に出かけた。福岡・修猷館、佐賀・尋常中学柳川伝習館などをめぐり、授業内容や教師の評価を記す報告書を提出した。熊本大学に残っている資料から、漱石自筆の報告書が見つかり、詳細がわかった。それによると、評価できる教師の授業は、ただ英文和訳をするだけでなく、発音、アクセント、英文暗唱、英作文添削など多彩な教え方をしており、発音、会話、文法、英作文を取り入れた総合的な学習が大事だと主唱する。これは、現在の英語教育を先取りしており、この点でも漱石先生はエライ人だ。英語学者、教育家としても一流だった。

 五高教師の人事にも関与した。「ある無能力の教師放逐を建議するつもり」なんて過激な文面がのる手紙もある。著者の村田さんは当時の五高の出勤簿を調べ、欠勤が異常に多かった某氏に注目。某氏はこの手紙の半年後五高を免官、その後いくつかの中学教師を経て東京府立二中(現立川高校)の校長になったという。

 漱石は従来、「文部省第一回給費留学生」として英国に留学したとされる。高等学校の先生として初めて官費留学生になった、という意味だ。漱石研究者や漱石ファンが常に頼りにし、ときに首をかしげる『漱石研究年表』(荒正人著)にも明記され、鏡子夫人の回想にも同様の言及がある。村田さんは官報や職員名簿にあたり、漱石以前にも一高や五高の教師が官費留学しているのを確認、第一回とはいえないと記す。

英国からの帰国時に、熊本に一時立ち寄った

 わたし(評者)がもっとも興味深かったのは、英国からの帰国時に、熊本に一時立ち寄った可能性を具体的に示したこと。ロンドンからの帰国船は長崎に寄港した後、神戸に向かい、漱石は神戸で下船、東海道線夜行で帰京した。これまでは「熊本には帰らず」(岩波漱石全集の注)というのが定説だった。ところが、五高記念館蔵の漱石の「留学始末書」の写しには「一月二十日長崎港着同二十一日熊本着」という記述があり、また五高の「職員出勤簿」の一月には「二十一日帰校」と朱筆で記されているという。船は長崎に3日停泊しており、鉄道や船舶で熊本往復は可能だ。漱石は帰国後、熊本に戻るつもりはなかった。義理堅い漱石が、あいさつのために五高を訪れた可能性は十分あると思われる。

 「自転車を輪に乗る馬場の柳かな」。漱石が詠んだ唯一の自転車の俳句だ。春の一日、運動場や馬場などで、若者が自転車の練習する風景だが、当時、自転車は都会の富裕層に限られていたとよくいわれるが、県の統計(当時は自転車税があり、台数が把握できた)や新聞、校友会誌などを調べると、貸自転車屋が市内にいくつもあり、自転車は地方都市でもそこそこ走っていた。ただ、広告によると、輸入自転車は一台80円から200円近くした。当時の1円はおおむね1万円くらいだとすると、かなり高級品には違いない。貸自転車が多かったのだろう。

 「鏡子夫人自殺未遂事件」は、漱石の熊本生活でもっともショッキングなできごとだ。流産や孤独な地方暮らしでノイローゼになった夫人が、家の前の白川に飛び込み、漁をしていた職人に助けられた。先の『年表』はじめ、定説になっている。村田さんは、この事件は夫人や子どもたちの回想に全く触れられていない、結婚当初から夫婦に確執があったとする自伝的小説『道草』の内容をそのまま事実とみていいか、と疑問を呈し、自殺を図ったのではなく、ヒステリー症のため、夢遊病者のようにさまよい出、たまたま川に落ちたという事故に近いものとみる。では事故後、五高の同僚が警察や新聞社を回って、表ざたにならぬよう奔走したのはなぜか、昭和の初め、熊本を訪れた娘婿の松岡譲に漱石の元同僚が、夫人が川に入水したことがあったと打ち明けたのは、なぜだろうか。夫人がその後、まったく触れなかったのは、当然だろう。やはり発作的に川に入った、とみるのが自然ではなかろうか。

 いずれにせよ、労を惜しまず当時の資料を博捜、チェックし、ファクトを一から確認する姿勢は貴重だ。新発見もあり、筋金入りの漱石ファンにもお勧めできる一冊だ。

 本欄では漱石関連で『胃弱・癇癪・夏目漱石』(講談社選書メチエ)なども紹介している。

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