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「日本唯一の男子マラソン金メダリスト」が箱根駅伝に出られなかった理由

  • 書名 評伝 孫基禎
  • サブタイトルスポーツは国境を越えて心をつなぐ
  • 監修・編集・著者名寺島善一 著
  • 出版社名社会評論社
  • 出版年月日2019年4月 3日
  • 定価本体1400円+税
  • 判型・ページ数四六判・160ページ
  • ISBN9784784515691

 2020年の東京五輪が近づいている。オリンピックの華はマラソン。日本の女子は高橋尚子、野口みずきの二人が過去に金メダルを獲得している。

 では、男子は? と聞かれて即答できる人は少ないのでは。実は唯一人、金メダルを取った選手がいる。それが本書『孫基禎――スポーツは国境を越えて心をつなぐ』(社会評論社)の主人公、孫基禎だ。

祝賀会は欠席

 1936年のベルリン五輪。日本からは3選手がマラソンに出場した。日韓併合下の朝鮮から孫と、南昇竜の二人、日本から塩飽玉男。当時すでに世界最高をマークしていた孫は、有力な優勝候補だった。しかし、前回のロサンゼルス五輪で優勝したアルゼンチンのザバラも連覇を狙って万全の構えだった。

 レースは8月。気温30度の中で始まる。まずザバラが飛び出し、快調なペースでラップを刻んだ。4キロ地点で早くも孫に1分30秒近い差をつけていた。次第に孫は焦りを覚え、10キロ付近でスピードを上げ、追いかけようとする。その時、並走していたイギリスのハーパーが「スロー、スロー」と声をかけた。この暑さでは後半参ってしまう、と暗に自制を呼びかけたのだ。

 案の定、ザバラは30キロで倒れて意識不明に。ペースを守って着実に走っていた孫は、2位のハーパーに2分4秒の差をつけて優勝した。タイムは2時間29分19秒。オリンピック新記録だった。3位には後半追い上げた南が入った。「日本」がなんと金と銅という快挙だった。塩飽は途中で棄権した。

 同胞の金メダルを伝える朝鮮の新聞「東亜日報」が、孫の胸の「日の丸」を消した写真を掲載し、大問題になった話は有名だ。記者らが逮捕され、新聞は無期限発行停止処分になった。実は当時、孫自身もすでに民族意識を高めていて、表彰台では月桂樹の冠を頭からはずして胸に当て、日の丸を隠そうとしていたそうだ。

 それには伏線があった。そもそも日本陸連は、五輪マラソンに朝鮮人が二人も入ることに難色を示していた。選考会でいったん3人が決まっていたにもかかわらず、日本人を一人増やして計4人で大会直前に30キロを走らせ選考をやり直した。結果は、朝鮮人2、日本人1で揺るがなかったが、孫も南もそうした陸連の工作を不快に思っており、レース後の祝賀会は欠席した。金メダルの裏にはいろいろと根深いものがあったことを知らされる。

小学生の時から家計を助けて行商

 孫は1912年、朝鮮半島の北西部、鴨緑江の近くの貧しい家に生まれた。冬になると鴨緑江が氷結し、子どもたちはスケートで遊ぶ。孫の家はお金がないので、スケート靴を買ってもらえなかった。仕方なく、河岸を走って気を紛らせていた。小学生の時から行商で家計を助けていたという。

 日本に行けば働きながらランニングの練習もできるということで、16歳の時に長野県の飲食店に。しかし、触れ込みとは違って丁稚奉公。とても練習できる環境ではない。失意のうちに帰郷し、出直しを図る。やがて朝鮮の長距離記録会で好記録を出して陸上競技の名門、養正高校(内地の旧制中学に相当)に誘われる。学費や住居、食費などは、孫の才能を信じる朝鮮の人が援助した。

 この養正高校時代に、孫は報知新聞主催の「第13回東京-横浜往復中学校駅伝」に出場、日本の中学校20校のチームを相手に優勝している。釜山に戻った時は、朝鮮の人たちから大歓迎を受けた。ソウル(当時は京城)までの停車駅ごとに歓迎が続いた。日本の植民地支配下で鬱屈していた朝鮮の人たちの喜びぶりは大変なものだった。

 本欄では以前、『近代日本・朝鮮とスポーツ』(塙書房)という本を紹介したことがある。それによると、1910年の日韓併合後の朝鮮では、25年から「朝鮮神宮競技大会」という大規模なスポーツイベントが開かれていた。参加者は朝鮮人と日本人が半々。朝鮮人の間でもスポーツ熱が高まり、35年の全日本サッカー選手権で優勝したのは京城蹴球団、バスケットの全日本選手権も朝鮮のチームが優勝していた。

明治大学と深いつながり

 36年の孫のオリンピック優勝は、朝鮮の人々の民族意識を一段と高揚させた。日本側は逆に警戒感をあらわにし、金メダルの歓迎会を開かせない。本書74ページに貴重な写真が掲載されている。帰国した孫は右腕をサーベルを持つ警官に、左腕を私服警官に捕まれ、まるで護送される容疑者のようだ。こうして孫は優勝したものの、朝鮮人のヒーローとなって目立つことを封じられる。

 本書には多数のエピソードが登場する。そのなかで、これは酷いなと思ったのは、2002年、孫の韓国での葬儀に、JOCなど日本のオリンピック関係者が誰も出席しなかったということ。本書の著者、寺島善一・明治大学名誉教授は葬儀に出席して驚いたという。息子さんに確認したら、日本のスポーツ界のからの供花、香典、弔電もゼロだったという。孫の金メダルは日本のものか、韓国のものかという議論があったそうだが、何とも大人げない対応だと思った。

 実は寺島さんが長年、スポーツと社会の関係を教えてきた明治大学は、孫と縁が深い。金メダル獲得後、孫はこのまま朝鮮にいては同胞に迷惑をかけると思って日本の大学への留学を希望、あちこちの大学で断られる中で孫を受け入れたのが明治大学だった。

 そのとき、日本政府が付けた条件は「再び陸上をやらないこと、人の集まりに顔を出さないこと」だったというから、これが金メダリストに対する仕打ちかと呆れてしまう。

 明大時代は「箱根駅伝」に出たかったそうだが、走ることを禁じられているから、「幻のスーパーランナー」だ。年頭恒例の箱根駅伝エピソード番組でも、「箱根に出られなかった金メダリスト」の話は放映されたことがないそうだ。

ソウル五輪の聖火ランナーに

 しかしながら、中には孫をかばったり、交流を続けたりした日本人もいた。一人は大島鎌吉(1908~85)だ。1932年のロサンゼルス五輪の三段跳びで銅メダル。36年の孫が出場したベルリンでは日本選手団の旗手を務めた。

 選手団は背の高さ順に並んで行進することになり、女子選手や背の低い孫は前の方に。ところが馬術の選手として参加していた陸軍軍人が異を唱えた。「帝国陸軍軍人が、朝鮮人や女の後ろを行進できるか!」というわけだ。そのとき大島が一喝した。「ここはオリンピックの場である。帝国軍人も朝鮮人もあるか! 選手団として決めたことを守ってきちっと並べ!」。これを機に大島を敬愛、人生の師として終生尊敬したという。大島は後に大阪体育大学の副学長になり、国際的に「スポーツと平和」を訴える活動を続けたが、孫はたびたび参加している。

 孫は戦後、韓国陸連の会長なども務め、1988年ソウル五輪で開会式の聖火ランナーにもなった。それをスクープしたのが、当時、東京新聞の伊藤修記者だ。父がベルリン五輪で孫を取材、親子ともども親しかった。後に伊藤記者は中日ドラゴンズの代表になって、日韓プロ野球交流に尽力した。これは孫を通じて韓国球界に働きかけた結果だという。中日はその後、韓国球界のスーパースター、宣銅烈を入団させた。韓国プロ野球から日本球界への来日移籍選手第一号となった。

 日本人ではないが、冒頭に登場したイギリスのハーパー選手との交遊も続いた。あのときハーパーが自重を促さなければ、孫も途中でつぶれ、ハーパーが優勝できたはずだ。孫はハーパーのスポーツマンシップに終生感謝を忘れず、クリスマスカードの交換を続けたという。

 本書は長く明治大学で教鞭をとった寺島さんが、孫を、明治大学に関係した偉大な人物としてまとめたものだ。寺島さんは2002年12月、孫を偲ぶ会を明治大学で開催した。そこには2000年のシドニー五輪で金メダルを取った高橋尚子を育てた小出義雄監督も出席した。「孫基禎さんからマラソンの指導の要諦を教わり、それが高橋尚子の金メダルにつながった」と話したという。

 多くの日本人の意識の外に追いやられている孫基禎。しかし、心ある人の縁は続いていたということを再認識できる。本書は、オリンピックの精神についても縷々書かれており、商業主義と国家の金メダル競争に陥りがちな近年の五輪の原点についても再考できる。「東京五輪に向けた必読書」と出版元は宣伝しているが、日韓関係が悪化の一途をたどっているときだけに、頭を冷やす意味でも読む価値がある。

 本欄ではサッカーと朝鮮半島との関連で『無冠、されど至強――東京朝鮮高校サッカー部と金明植の時代』(ころから刊)も紹介している。

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