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体罰で伸びる人材、伸びない人材

   大阪市の体罰問題により、体罰を巡る議論が盛り上がっている。もちろん、体罰自体は悪いことだが、ここでは倫理的な是非とは別に、人材育成という観点から体罰問題を考えてみたい。

   まず、文字通りの体罰にくわえ、広義の精神的ダメージを与えるものも含めて“体罰型”人材育成と定義したい。それから、育成可能な人材レベルをマイナス10~プラス10点の幅であるとする。

   筆者の感覚で言うと、体罰型で伸びるレベルというのは、マイナスから0点あたりまで、頑張って2点か3点くらいの伸びしろしかない。基本的に体罰型とは心身にダメージを与えることによる一種の減点主義であり、減点主義では個人がリスクをとらない分、どうしても伸びしろが少なくなってしまうからだ。

マイナス状態を脱却する効果はあるかもしれないが

   「餃子の王将」のように優れたマニュアルに沿ったルーチンワークがビシっとあって、とりあえずはそれに沿ってソツなく動ける人材を育成したいなら、別にそれでも構わない。だが大方の企業は、グローバル環境で成果を上げるために、社員に最低でも5点以上に育ってもらわなければならないと考えている。

   というわけで、そういった企業では、研修も人事制度も、いかにして自立型人材を育成するかという点に軸足が置かれるようになっている。

   90年代にはまだまだ「新人は寮では必ず相部屋にして集団生活に慣れさせる」とか「研修では涙を流すまで社訓を詠唱させる」なんてことが大企業でも多々あったが、最近はとんと聞かなくなったものだ。

   そういう意味では、教育現場は20年ほど民間企業から遅れているなというのが、今回の騒動を見ていての筆者の正直な感想だ。

   それでも「マイナスからゼロ前後まで伸ばすという点で、体罰には意味があるんだ」という人がいるかもしれない。実際そうかもしれないと筆者も思う。中学の時の部活動では、竹刀を持った教師がどやしあげている学校に手も足も出なかった記憶もある。

体罰の一掃で生まれる「大切な別の何か」

   でも仮にそうだとして、誰が「体罰式はここまで、これから先は自主性を重んじるからな」という線をどこに引くのか。柔道の日本代表クラスでも普通に体罰が行われていた現実を見るに、そうやって育った人間たちに線を引くことはできず、結果的に体罰型の蔓延を許してしまうだけではないのか。

   そして、これは筆者の杞憂かもしれないが、柔道のような伝統ある競技においても、やはりビジネス同様、10点近い自立型人材が求められ始めているのではないか。ロンドン五輪における男子の金メダルゼロという結果に、筆者はどうしても体育会カルチャーの限界を感じてしまう。

   日本から体罰的なものを一掃してしまえば、たぶん中学高校レベルのスポーツは間違いなく弱くなるだろう。なんだかんだ言って、10代のうちは楽しんでやっている人間より、竹刀でぶっ叩かれている人間の方が伸びるからだ。

   ただ、それによって、社会にもっと大切な別の何かが生まれるように予感しているのは、筆者だけだろうか。(城繁幸)