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「ふだんは善人」が犯す悪事 その時、「心の中」で起きているコト
【企業不正に手を染める~】

   悪いと知りながら不正をするには、それなりの理由がある。では、いきなり問題。次の3人が異口同音に口にした理由は何か?

   ケース1:JR山手線外回り電車の運転士が、列車を運転しながら私物のスマートフォンでゲーム攻略サイトを見ていたのを乗客に見とがめられ、乗務から外された。

   ケース2:大阪の私鉄に勤務する運転士が、乗務中に乗客から直接受け取った運賃計3000円を着服したとして、懲戒解雇された。

   ケース3:警視庁の巡査長が、CDショップで女子高生のスカート内を盗撮したとして、現行犯逮捕された。

   正解は・・・

相手に情状酌量を求めるために・・・

魔が差した・・・
魔が差した・・・

   「魔が差した」である。

   何とも便利な言い訳だ。広辞苑によると、魔が差すとは「悪魔が心に入りこんだように、ふとふだんでは考えられないような悪念を起す」ことである。一方、「笑える辞典シリーズ(国語辞典)」は、「悪事を働いた者が『私は通常は善人であるが、そのときだけ悪魔にそそのかされて悪人になってしまった』と、まるでその犯行は自分の責任ではないかのように、相手に情状酌量を求めるために用いる」などと手厳しく皮肉っている。 言い得て妙ではないか。

   「私は通常は善人であるが・・・」という言い訳は、前回のコラムに書いた性善説の考え方に通じるといえるだろう。しかし、だからと言って「自分の責任ではない」と言い逃れられないのは当然で、性善説に名を借りた後付けの自己正当化に過ぎない(ちなみに「不正のトライアングル」における正当化は、不正実行前の理由づけであるという点で、後付けの言い訳とは異なる)。

   上に挙げた3人は、確かにふだんは善人だったのかもしれない。しかし、運転中にスマホを手にしたとき、乗客から手渡された運賃をポケットに入れたとき、そして、女子高生に背後から近づいたときに、「自分はこれから、やってはいけないことをやるんだ」という自覚を多かれ少なかれ持っていたはずだ。

懐疑的な性善説

   百歩譲って「悪魔のささやき」なるものが本当に聞こえたのだとしても、結局は欲望に負けて自分の意思でやったのであり、悪魔のせいにすることは許されない。「悪いのは自分の意思の弱さ、良識のなさである」ということをきちんと認めさせることなく、「魔が差した」で済ませてしまえば、再発防止はままならない。

   一方で、良からぬ欲望を抑えるのは簡単なことではない。三谷幸喜氏の脚本で注目を浴びているNHK大河ドラマ「真田丸」で、幸村の父を好演している草刈正雄氏のセリフに「人は皆、己の欲のために動くのじゃ」というのがあったが、私たちは「己の欲」と「人としてもつべき誠実さ」との間で葛藤を繰り返しながら、日々暮らしているのではないだろうか。

   前回書いた「懐疑的な性善説」は、このような葛藤の存在を冷静に見据えた考え方といえる。要は、人は誰でも、自分の意思の弱さ、認識の甘さが作りだす心の中の悪魔にそそのかされて不正の動機を抱き、「気づかれないだろう」と打算的に考えて、「ちょっとくらい」などと正当化してしまう恐れがある、というリスク感度を常に高めておくということである。

コミュニケーションを密に、チェックを怠らないよう

   東芝の不正会計事件を受けて、2016年1月27日に日本公認会計士協会が全会計士に対して出した「会長通牒」には、監査人は、不正リスクは「全ての企業に常に存在するという前提で」リスク評価を行い、「被監査会社又は経営者の社会的名声による予断にとらわれることなく」監査を実施しなければならない、と書かれている。

   これは、会社の現場において上司が部下一人ひとりと接する際にも当てはまる。どんなに「できる」「優秀だ」という名声のある部下であっても、心の中に不正のトライアングルが作られる可能性があるという前提で、コミュニケーションを密に保ち、チェックを怠らないようにしなければならない。(甘粕潔)