J-CAST ニュース ビジネス & メディアウォッチ
閉じる

インドで「物乞い」に遭遇したとき、ドケチの日本人はどうすべきだったのか(北条かや)

   1週間ほど、インドへ行ってきた。海外へ行くのは8年ぶり。今まで行ったことのある国はオーストラリアや韓国など、一応は「先進国」なので、むせ返るような発展途上国の熱気を味わってこようと思ったのだ。

   成田から飛行機で9時間。ニューデリーに到着したのは真夜中だった。翌朝また国内線に乗り、宗教的な名所「ブッダガヤ」と「ワナーラシー」へ。気温は日本の10~11月くらいで、早朝は冷えるが、日中はカラッと晴れて快適だ。

  • 「ガンジス川はスゴかった!」(写真はイメージ)
    「ガンジス川はスゴかった!」(写真はイメージ)
  • 「ガンジス川はスゴかった!」(写真はイメージ)

ガンジス川では何でもアリ

   ワナーラシーは、あの有名なガンジス川があるところ。ヒンドゥー教の聖地で、早朝と夕刻に、ガンジスの川辺で祈りを捧げる人たちが集まる。日本の川でいう「土手」が20~30段ほどの階段になっており、水中まで続いている。

   現地のガイドさんいわく「水深は60メートル」(!!)というが、階段を降りて腰まで水に浸かったあたりで沐浴をする人たちが目立つ。洗濯板を使ってバシャン、バシャンと豪快な音を立てながら、着物を洗う人もいる。

   少し行くと、火葬場があった。川の浅瀬に遺灰が山のように積もっている。遺族がガンジス川に遺灰をまき、火葬場から出た灰が川に流れ出ている。

   赤ん坊やお坊さんの御遺体は、宗教上の理由からそのまま川に流すらしい。火葬場の横には「老人ホーム」のような施設があり、そこで死を待ち、神聖な川で燃やされるのを待つご老人も多いとか。

   よく日本のバックパッカーが、「ガンジス川はスゴかった!」とか、「死生観が変わる!!」などと言って帰ってくるのは、こういうことか。もちろんインド人のすべてが、ガンジスで御遺体を燃やすヒンドゥー教徒ではないが、全体の8割を占めるパワーは圧倒的だった。

   インド人の多くは、宗教というものを強く信じており、宗教的な心の豊かさを大切にしている。その背景にはもちろん、過酷な環境があるのはいうまでもない。国民全体の2割、人口にして2億人以上が貧困層。農村ではいまだに電気がなく、半数以上が貧困層というエリアもある。

   都市部では、至るところで「物乞い」を見かける。1週間と短い滞在だったが、何度もストリートチルドレンが手を差し出してくるのに出会った。手足のないご老人が、ボウルのようなものを差し出してくるのにも、慣れてしまった。

お年寄りの物乞いは許されている?

   現地の人は、障害をもった人やお年寄りには比較的優しい。「喜捨(バクシーシ)」の精神で、富める者が貧しい者に施しをするという習慣が根付いているからだ。

   その一方で、ストリートチルドレンの存在はほとんど無視されている。

   聞けば、からだが弱って働けない老人はまだしも、子どもの中には「組織的に物乞いをさせられている」ケースもあるから、キリがないというのだ。ガリガリに痩せ、赤ん坊を背負って手を差し出す少女を無視すると、心がズンと暗くなる。

   それでもう、最初から「あげない」と決めたのだが、やっぱり子どもたちはやってくる。クルマの窓をコンコンと叩いて、こちらが聞き取れないヒンディー語(おそらく)を発し、大きな目をうるませて小銭を乞う。

   小銭ではなく食べ物ならどうかと、パンをあげても首を振り、「お金がいい!」とジェスチャーをされるから、ちょっと凹む。無視したら、イライラしたのか、その子どもが道端の野良犬に飛び蹴りを入れていた。犬も子どもも、憐れである。

   私などが「施し」をしても、この国の貧困は改善するどころか固定化してしまうのではなかろうか。ときどき「発展途上国に井戸を掘ります」とか、「孤児院を支援します」みたいな国際団体を見かけるが、彼らに寄付したほうが長期的には善なのでは......。

   結局、物乞いの子どもたちに小銭をあげなかったのは、私が単にケチだから、かもしれない。私なんぞが施しをしたからといって、この世界は何も変わらないという、ちょっとした絶望もあった。

   帰りの空港で、余ったルピーを持て余した。

   なんだか贅沢品を買う気分ではない。帰国後、使うあてのないインドのお札を引き出しにしまった。結局、私はインドで大した施しもせず、贅沢品も買わず、何にもできなかったのである。(北条かや)