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「バスケの選手であることを忘れる」同期にそう言われるとうれしい(日本生命 北間優衣さん)

   幼いころから、元気のいい、やんちゃな子だった。とても脚に障がいを抱えているようには見えないほど。幼稚園から学校生活では、ずうっと健常者と混じって、勉強も運動もこなした。授業では、体育が大好きだった。

   日本生命保険に勤める北間優衣さん(24、きたま・ゆい)は、2020年の東京五輪・パラリンピックの車いすバスケットボール女子の日本代表候補のひとり。本番まで、あと1年に迫り、チームメイトとの最終調整や厳しいトレーニングを日々こなしている。そんな北間さんに、ふだんの職場でのようすや仕事とバスケットボールとの両立、そしてパラリンピックへの思いを聞いた。

  • 2019年正月、ツイッターには「挑」と書いて、決意を新たにした(日本生命・北間優衣さん)
    2019年正月、ツイッターには「挑」と書いて、決意を新たにした(日本生命・北間優衣さん)
  • 2019年正月、ツイッターには「挑」と書いて、決意を新たにした(日本生命・北間優衣さん)

体幹を強化してシュートの飛距離を伸ばす

   車いすバスケットボールには、「持ち点」がある。障がいの重い選手に「1.0」の持ち点がつき、障がいのレベルに応じて0.5刻みに全8段階に分かれる。障がいが一番軽い選手の持ち点は「4.5」で、これは半月板の損傷などで立って走ることができなくなった選手のレベルにあたる。

   そうしたなか、北間さんは障がいのレベルが最も重い「1.0」。「腹筋背筋から下がほとんどマヒしている状態なので、何をするにしてもおへそから上だったり、胸から上だったりしか使えません。カラダを鍛えるにしても、使えるところと言うか、上半身だったり背中(背筋)だったりのウエイトトレーニングに時間をかけます」と話す。

ユニホーム姿の北間優衣さん。カッコいい!(写真提供:車いすバスケットボール連盟)
ユニホーム姿の北間優衣さん。カッコいい!(写真提供:車いすバスケットボール連盟)

   ふつうにジムに通って、一般の人と変わらない、マシンを使ってのトレーニング。「自分のコントロールが効く部分で体幹を鍛えます。去年、おととしと重点的に鍛えました。重さを持ち上げるので、一人ではなかなか難しかったりしますが、パーソナル(トレーナー)についてもらって、一緒に取り組んでもらっています。

   でも、トレーニング効果を感じにくいというか、使っているカラダの範囲が小さいので、目に見えて(効果がある)というのは難しいんですね。それでも、体幹トレーニングには力を入れてきました。以前は、横に来たボールはカラダがぶれて倒れたり、次の動作が遅れたりすることがありましたが、今はそういうことがほとんど感じなくなっています。トレーニングの成果を感じますし、シュートの飛距離が伸びたところも、体幹が安定して筋力がついたからこそだと思います」と、ほほ笑んだ。

試合、遠征のこと...... 自ら話しかけること心がける

   日本生命で北間さんは、社員向け研修を運営するチームに配属されている。社員研修用の資料作成や、名簿や座席表の作成といった事前準備や、当日の運営に携わる。

   週2日の勤務。とはいえ、海外遠征や合宿、7月以降は東京パラリンピックに向けたスケジュールが詰まってくる。月8回ほどの出勤回数も、おのずと減る。

「週2日の出勤ですし、6月はドイツ遠征があったり......。その月ごとで出社日数が変わるので、長期でこの仕事を任せますというのは、会社としてなかなか難しいと思います。ただ、単発であろうと、その仕事は誰かがやらなければならないので、それを私がやることで誰かの助けになるだろうな、という思いで取り組んでいます。
バスケットに専念する環境をいただいている分、微力ではありますが、一人ひとりの仕事が少しでも軽減できればと思っています」

   そんな職場で、北間さんが心がけているのが「会話」だ。ふだんは机を並べて仕事している「チーム」。持ち前の明るさもあって、職場の先輩や同僚には日ごろから積極的に話しかけている。

「職場やチーム、いろんな人と仕事のことやバスケのことを話していかなければいけないと思っています。たとえば『遠征でこんなことがあった』とか。コミュニケーションは意識してとっています」と、出勤日数の少なさを埋めるかのように話す。だからこそ、地元・関西で開催される試合には、部署のみんなが応援に駆け付け、大いに盛り上がる。
「同期に、『バスケの選手だということを忘れる』と言われます。それってある意味いいことだと思っていて、車いすバスケをやって、その結果、日本代表をやらせてもらっていますが、一人の社会人であることに変わりはありません。きっと『ふつうの同期』として見てくれているんだな、と。私としては、『北間優衣』として見てほしいと思うので、身近な存在として見てくれているのはありがたいなと思います」

と、うれしそうだ。

「挑戦する」ことを教えてくれた恩師との出会い

   北間さんの病気は、先天性二分脊椎症。「生まれてから、歩いたことってないんですよ」と、あっけらかんと言う。小学校から中学・高校、大学まで、養護学校や特別支援学校ではなく普通校に通っていた。

   バスケにのめり込むきっかけは、中学1年の1学期。必ず入らなければならない部活に、大好きなバスケを選んだ。「でも、ほぼマネージャーという扱いで......。練習には加わるんですが、ゲーム形式の練習はできませんでした。それでも最初はバスケの近くにいられことだけで十分だったんですが、どこか心の中で『私もバスケしたいのにな』という思いが強まりました。そんなときに、顧問の先生が『そんなにバスケ好きなんだったら、車いすでもバスケできるよ』と、地元・伊丹の車いすバスケのチームの練習に連れて行ってくださったんです」。

「強いチームで鍛えられ、どんどん夢中になった」と語る北間優衣さん
「強いチームで鍛えられ、どんどん夢中になった」と語る北間優衣さん

   そのバスケットボールチームが、「伊丹スーパーフェニックス」だった。地元チームで車いすバスケのキャリアをスタート。その後、チームメイトの薦めもあって、当時から多くの日本代表選手が所属する強豪、「カクテル」へ移った。そこで鍛えられるうちに、車いすバスケにどんどん夢中になった。

   北間さんには、大事にしている言葉がある。「初心忘るべからず」。その理由は、「向上心」を失いたくないから。だから、「挑戦」し続ける。2019年正月、自身のツイッターに、漢字で一文字「挑」と書いた。

「もっとうまくなりたいという気持ちは、みんなが持っていると思うんですが、一方で経験と知識がついてきて、自分のプレースタイルやスキル、自信がついてきたときに向上心を失うんじゃないかと思うことがあって......。一選手として、そのことがとてももったいないことに感じています」

   「チャレンジ精神」は、中学時代の女子バスケ部の顧問の先生の教え。「わたし、バスケの第一印象はすごく怖い競技だと思ったんです。でも、その時に顧問の先生から、『バスケをやりたかったという気持ちがずうっとあったんだから、それを自分で体感してみて。まず、やってみたら』と背中を押してくれたんです」。そのおかげで、「今の自分がある」と言う。

   毎年、地元での大会に恩師を招いている。「こうなりましたという姿を見てもらいたいから」。2020年、東京パラリンピックまでの時間を、挑戦と失敗の中で課題を見つけ、そしてまた挑戦するスタイルを貫き、「てっぺん」に臨む。