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「シュウカツ」に感じる息苦しさを改めて考えてみた(叶多凛)

   これまで就職活動をテーマにいろいろと書いてきたんだけれども、わたしは就活、「シュウカツ」という言葉に今でも息苦しさを感じている。

   就活という言葉からイメージされるのは、真っ黒なスーツに真っ白いワイシャツ。「理想とされる就活生像」のようなものがどこかにあって、「自分」をほどよく隠して、みんなが似たような型に押し込められていく感覚。みんなが一緒の方向を向いて、同じ格好で、どうにもこうにも息がつまる。

  • 「ふつう」って、なあに?
    「ふつう」って、なあに?
  • 「ふつう」って、なあに?

「ふつう」って、いったいなあに?

   そもそも、なぜ就活をするのかということを考えてみると、もちろん仕事がなければ生活していけないという理由もあるけれど、それだけではないと思う。就活はいわば、近い未来に学校という「所属」を失う自分のための、新しい「所属」探しでもあるのではないか。

   「自分がどこに/何に所属しているのか」というのは、その根っこの部分でアイデンティティの問題とつながっている。どこにも属さずに、何の肩書もない「わたし」は何者なのか――。

   「所属」がないとき、自分の存在を何が証明してくれるのか。多くの人にとって(もちろん、わたし自身にとっても)、「どこにも/何にも属していない」状況は怖くて、不安で、なんとなく心細いものだ。

   だからこそ、現代の日本社会においては、学校という所属から卒業してしまう前に、次に自分が所属する場所を探す。無所属の、不安な空白期間が生まれないようにするために。

   わたしの大学時代の友人には、いい意味でわりと奇人変人が多いのだけれど、その中の一人は「無所属」のまま、つまり、就職をしないまま大学を卒業した。卒業後に就活をするという道を選んだのだ。

   高校を卒業して、大学に通って、会社に就職するという一連のプロセスを、この順番の通りに、それもできる限りストレートに進むことが「ふつう」とされている社会において、彼の選択はなかなか簡単にできるものではない。

   卒業後に就活をしたり、途中で大学を休学したり、何年か働いてから大学に入学したり...... 本当は、選択肢なんて無限にあるはずなのに、それらが現代のマジョリティを占めている「ふつう」とは少しだけ違うからだろうか。そういった選択肢が取られることは多くない。

   みんな一緒の真っ直ぐなレールが敷かれていて、くねくねと寄り道をしたり、試しにちょっとナナメに行ってみたりするのは許されない、そんないらんことをする人は「社会」に適合できないんじゃない? みたいな、そんな雰囲気がある。

   そのうえ、「ふつう」から少しでもはみ出すことに、もの凄い勇気が必要とされて、たとえ「ふつう」とされる物事に違和感を覚えていたとしても、その小さな違和感だけじゃ結局どうすることもできない。

   だから、小さな違和感は見えないフリをして、それが「ふつう」なんだと自分に言い聞かせて。もしかしたら諦めにも似た気持ちで、わたしたちは社会に出て行かないといけないのかもしれない。

社会も就活も、こんなふうになったらいいな

   「ふつうはこうだから」「みんなそうしてるから」なんてセリフ、消えてしまえばいいのにと半ば本気で思う。就活にも、働き方にも、生き方にも、「ふつう」なんてものもなければ、「ふつうじゃない」なんてことだってないはずで。当然100%の答えだってないし、自分に合っている「答えらしきもの」を自分の力で、時には周りの力も借りながら、模索していくしかないんじゃないかなと思う。

   今わたしが「シュウカツ」という言葉を聞いてイメージするのはどうしても、ほとんどお揃い状態の真っ黒いスーツに身を包んだ集団だ。けれどもそのスーツの下には、みんながそれぞれちがった色を隠している。「ふつう」なんて言葉ではひと括りにできない、みんながそれぞれ「ちがい」を持っているのだ。そんな一人ひとりの色(カラー)が少しでも顔を出すような、出すことができるような就活に進化していったら、少しは「シュウカツ」という言葉に息苦しさを感じなくなるのかな。

   その人が持つ「色」の背景や成り立ち、そして相手と自分との違いを、「素敵だね、あなたはこれまでどんな選択をしてきたの?どんな人生を歩んできたの?」って認め合えるような社会が来ることを願って。(叶多凛)