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江戸時代の大名は災害が起こると、財政を傾けてまで領民を守った!【防災を知る一冊】

   9月1日は「防災の日」。1923(大正12)年9月1日に関東大震災が起きてから、もうすぐ100年になろうとしている。また、近年は9月に大型台風が上陸したり、長雨が続いたりして、各地で風水害も発生している。9月は防災、自然災害、気候変動、地球温暖化をテーマにした本を随時、紹介していこう。

   地震や台風などの自然災害は毎年のように甚大な被害をもたらしているが、江戸時代も事情は同じだった。社会制度が今とは異なる当時、地方の行政機関である藩は、どのようにして被災者を救ったのか――。

   有能な為政者は藩財政を傾けてまで、金銭給付や食料配布、建材支給、無償の医師派遣を迅速に行い、さらには犠牲者鎮魂の儀式まで催していたという。三重大学副学長の歴史家がお膝元の藤堂藩を中心にその実相を読み解いたのが、本書「災害とたたかう大名たち」(KADOKAWA)である。

「災害とたたかう大名たち」(藤田達生著)KADOKAWA
  • 大名は災害とどう戦ったのか!?(写真は、藤堂高虎像)
    大名は災害とどう戦ったのか!?(写真は、藤堂高虎像)
  • 大名は災害とどう戦ったのか!?(写真は、藤堂高虎像)

藩の年間収入を上回る金を領民に

   著者の藤田達生さんは、三重大学副学長で教育学部・大学院地域イノベーション学研究科教授。「藤堂高虎論」「信長革命」などの著書がある。

   藤堂藩は、伊勢・伊賀などで32万石を有する大藩だった。嘉永7年(1854)6月15日に阪神・淡路大震災と同規模の安政伊賀地震が発生した。災害対応の記録が詳細に残っており、災害時の被災者支援は手厚かったことがわかる。

   伊賀領における死者数は597人、負傷者は965人、全壊家屋2028軒、半壊家屋4357軒(藩士分を除く)という被害だった。

   地震当日、上野町人に対して仮小屋を安全な場所に設置することが許可され、資材と食料が給与され、町や村に対して被害調査がなされた。翌16日には、最低限の避難場所の確保と、震災の被害状況の第一報が江戸の藩主へ伝達された。

   その後も死者1人につき米1俵が渡され、全壊した家には町方では1軒につき金2両(26万円)と米4俵、郷方では1軒につき金3両(39万円)と米1俵が渡されるなど、手厚く保護された。

   安政伊賀地震において藤堂藩が伊賀領の領民に渡した金の総額は2万5643両(約33億円)にも上った。藩の年間全収入は3万5600両(約46億円)だったから、その72%に相当する莫大な支出だった。ほかにも伊勢領などがあったから、優に年間収入を超えたと予想される。幕府から2万両を借りたことがわかっているので、借金をしてまで藩士や領民の生活復興を優先した、と藤田さんは評価している。

なぜ藩は領民を保護したのか?

   幕藩体制の根本理念は、天下の領知権(国土領有権)を、天から天下人や将軍が預かり、彼らが器量に応じて領知権を諸大名に預ける、という「預治思想」にあった、と解説する。

   天下統一後、諸大名は戦国時代とは違い地方社会に君臨する王ではなく、官僚として国務の一翼を担う存在と位置づけられた。このことを象徴する次のような文章がある。

「全国の大名家の中には、江戸時代を通じて10回以上も国替を経験した家があることが知られている。それが可能だったのも、城郭や武家屋敷が公儀(幕府)からの預かり物として位置づけられていたことによる。つまり城郭から武家屋敷に至るまでが、『官舎』として管理されていたのである」

   藤堂藩では城郭や武家屋敷はもとより、町人屋敷に加えて百姓家屋までが管理されていた。「田畑は公儀の物」あるいは「公田」という理解だった。したがって、災害がおこれば、困っている百姓を救済するのは当然の使命だった。

   領地領民を守り藩主との信頼関係を構築することこそ、支配の安定化に不可欠と認識したからだ。だが、それが次第に揺らいでいく。

   「預治思想」に基づく幕藩体制において、定期的な移動である参勤交代や、不定期ではあるが国替や役職の移動が基本にあった。しかし、さまざまな災害が続き、その復旧に莫大な費用がかかると移動が妨げられた。

災害が続き藩は自立、幕末へ

   藩の財政が苦しくなると、幕府に借金をしたが、天明年間(1781~89)移行、幕府は深刻な財政危機によって、例外はあったが基本的に借金を受け付けなくなっていた。その結果、西国の外様大藩(薩摩藩や長州藩など)を中心に藩の自立化が進められた。

   藩財政の立て直しのために特産品の専売化などを進めて、雄藩化が図られていった。国替や参勤交代も十全には行われなくなっていった。権威が低下した幕府に代わって朝廷との結びつきが意識された。こうして幕末を招いたのだ。

   「災害時こそ大名にとって支配の正当性を演出する絶好の機会」と藤田さんは書いている。災害時の生活保障の手厚さが、日常における両者の信頼関係の強化につながり、ひいては年貢の安定的な確保をもたらしたからだ。

   しかし、うち続く災害によってこれが守られず、一揆や打ちこわしが頻発し、やがて江戸幕府は崩壊した。

   コロナ禍の現在、災害から民を守れないと見切られた国はどうなるのだろうか。政治の機能不全がポストコロナ時代の歴史の転換をもたらすかもしれない、と藤田さんは書いている。

   ひと握りの特権層だけが優遇され、「新自由主義」が生み出した格差による国民の分断が進んでいる。江戸時代の大名がすべて藤堂藩のように手厚く領民を保護した訳ではないが、基本は同じだろう。江戸の大名たちの立派さを知るにつけ、現代の為政者はなすべきことを行っているのか、という不信感が募る。(渡辺淳悦)

「災害とたたかう大名たち」
藤田達生著
KADOKAWA
1870円(税込)