数独物語
〔第3章〕数独のデビュー
― 「数独」と「ナンプレ」生んだ、2人の日本人 ―

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株式会社ニコリでパズル誌の発行に携わり、現在は一般社団法人日本数独協会の代表理事の後藤好文さん。数独を愛し、20年以上にわたりその魅力を世界に広め続ける後藤さんが、数独のはじまりから現在にいたるまでの数々の歴史を、ご自身の体験を交えて語ります。

   1980年、日本で最初のパズル誌が生まれた。現在では大概の書店にパズルコーナーがあり、様々なパズル雑誌や書籍が並んでいるが、当時はパズルといえば、せいぜいクロスワードパズルが、新聞や雑誌の片隅に懸賞用に掲載されている程度であった。

   印刷会社の社員であった鍜治真起(かじ・まき)がまるまる一冊、パズルだけの雑誌を作ろうと思い立ったのは、彼自身がパズルに興味を持ったわけではなく、第2章に登場したデル社のパズルマガジンを見て「アメリカで売れるなら、日本でも売れるかも」という単純な理由であった。出来上がったのが「パズル通信ニコリ」である。1980年5月に創刊準備号、8月に創刊号が発売されている。

左:パズル通信ニコリの創刊準備号(左)と創刊号(右) / 右:鍜治真起
左:パズル通信ニコリの創刊準備号(左)と創刊号(右) / 右:鍜治真起

   私と鍜治は高校時代の同期生で、卒業から10年も経った1980年の正月にたまたま鍜治宅に当時の悪友たちが集まった。その時、鍜治がおもむろに取り出したのがこの創刊準備号なるものであった。色ムラのあるペラペラの表紙に手書きのクロスワードと迷路。どうみても素人の同人誌である。「俺はこの雑誌で商売をしようと思っている」と鍜治が言ったとき、集まっていた仲間全員が声を揃え「こんなものは絶対に売れない」とブーイングをしたのを覚えている。ところが友人たちの予想は見事に外れ、「パズル通信ニコリ」は売れてしまったのである。部数は号を追うごとに伸び続け、不定期だった刊行は年4冊の季刊となり、3年後の1983年、鍜治は株式会社ニコリを設立し、本当にパズル誌を商売にしてしまったのである。

   ニコリのゲリラ的な成功は、それまでパズル誌の発行に躊躇(ちゅうちょ)していた出版社を大いに刺激した。千代田区に本社ビルを持つ世界文化社が、大手出版社らしく、アメリカ・デル社と提携を結び、パズルの掲載権を得た上で、1983年12月に雑誌「パズラー」を発売する。この時、アドバイザーとして動いたのが当時フリーライターであった西尾徹也である。西尾は27~28歳の頃からパズルに興味を持ち始め、丸善の洋書コーナーで「デル・マガジン」を買い求めては、解いたり、作ったりを繰り返していた。

 
左:パズラー創刊号(1983年12月) / 右:西尾徹也
左:パズラー創刊号(1983年12月) / 右:西尾徹也

   つまり、鍜治も西尾もデル社のパズルマガジンを参考にしながら、日本にパズル文化と呼べるものを作ろうとしていた。そして迎えた1984年、彼等二人は、まるで示し合わせたかのように、一つのパズルをデル・マガジンの雑誌の中から発見する。それが、ハワード・ガーンズ作「ナンバープレイス」(第2章参照)であった。面白いことに二人とも英語は苦手なのだが、このシンプルなルールはすぐに理解でき、あっという間に解いてしまった。解くだけではなく、早速自らで作ってみた。

 

   最初に発表したのは鍜治である。1984年4月「月刊ニコリスト」に自作のナンバープレイスを掲載した。その際、このパズルを「数字は独身に限る」と命名した。各列、各ブロックに1から9の数字が一回しか入らない。一回はシングル、シングルは独身という発想である。このネーミングの妙が、後々世界を駆け巡るネタになるとは、当然のことながらこの時彼はまだ知らない。

   一方、西尾は創始者ハワードに敬意を表しタイトルは「ナンバープレイス」のまま、同年10月雑誌「パズラー」に自作を発表する。以後、「数字は独身に限る」は「数独」となり、「ナンバープレイス」は「ナンプレ」と縮められ、多くのファンを獲得していくことになる。

鍜治が発表した日本最初の数独。コメントに注目してみると、「誰か作って。」と彼はしっかり催促している。
鍜治が発表した日本最初の数独。コメントに注目してみると、「誰か作って。」と彼はしっかり催促している。

   鍜治真起はパズル誌専門の出版社の社長でありながら、パズルを解いたり、作ったりする才能には恵まれていなかった。本人がそのことを一番良く知っていたので、彼は読者を如何に巻き込むかということをいつも考えていた。読者から投稿作品を募り、その作品を掲載することで販売部数を伸ばし、投稿者の中で優秀な者たちを作家として囲い込み、更に優秀な作家を社員として迎え入れた。結果、ニコリ社は作家集団となり、ニコリ誌はパズル作家の登竜門としての地位を築いた。

   数独の場合も鍜治が自作を発表した途端、読者から投稿が殺到し、一躍人気パズルとしてニコリ内では不動の位置を占めるようになる。

   これに対し、西尾徹也は「お絵かきロジック」という大人気のパズルを考案するなど、ロジックパズルの天才であり、後に西尾自身の傑作を集めた「世界一美しく難しいナンプレ」を刊行するのだが、同時に雑誌「パズラー」誌上に「激作塾」という投稿作品を募るコーナーを主宰し、若手パズル作家の育成も目指した。

   数独もナンプレも作り手が増えることにより、次々と新しいテクニックが開発され、そのテクニックを使わないと解けない問題が出題され、難易度は高まる一方であった。表出数字(問題に最初から現れている数字)も、これまでは作家が好き勝手にバラバラに配置させていたのだが、点対称、あるいは線対称に配置するというルールを作り手に課した。これによって、見た目の美しさということも評価のポイントとなった。数独の本質から言えば、表出数字が対称でなければならない理由はない。しかし、対称でない投稿作品を没にすることで、いつの間にか、対称であることが不文律となっていったのである。

   こうして1988年、数独だけが掲載されている新書サイズ「ペンシルパズル本 数独」がニコリ社から発売され、世界文化社もすぐに追随し、新書サイズの「ナンプレ」を発行する。ともにシリーズ化され、書店の棚には、数独とナンプレがずらりと並ぶことになる。ハワード・ガーンズがまいた種が、5年の歳月を経て日本にたどり着き、そしてようやく花開いたのである。

   (第4章に続く)


   「数独物語」

〔第1章〕数独のルーツ ― 中国の占いから生まれた数独の原型 ―

〔第2章〕数独の誕生 ―アメリカ人の建築家が作った売れないパズル ―

〔第4章〕数独のブーム ― 世界の「Sudoku」ブームに火をつけた、ニュージーランド人の情熱―

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