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M・ジャクソンよ、ありがとう 「スリラー」に震えたあの日


   マイケル・ジャクソン
『NUMBER ONES』
*エピック移籍後のソロ第1弾『オフ・ザ・ウォール』から『インヴィンシブル』までのエピックでの25年間を集大成した1枚。


   20世紀最大・最高のPOPアイコンは、紛れもなくマイケル・ジャクソン(以下MJと記す)だった。「だった」と記すことが、悲しい。

   1980年代の前半、筆者は80年にそれまで勤めていたロック雑誌の編集をやめ、フリーの物書きとして活動を始めた。そして縁あって音楽の専門学校の講師として教壇に立っていた。種々問題があり既になくなっている学校だが、ここでどういうわけか「音楽経済」を教えていた。主にビジネスに直結する著作権に関わる諸々を話していたのだが、教室では、当時始まったばかりのMTVを通して一気に流れ込んできたミュージック・クリップを、ヴィデオにダビングして流し、生徒と一緒に見ていた。学校の運営そのものには問題があった記憶があるが、教室での生徒との交流は楽しかった。

   家に戻って、ダビング作業をする中で、衝撃的な作品と出会うのだが、それが「スリラー」だった。確か83年の暮れだった思うが、これはその後の世界の音楽を変えるほどの作品だと思った。14分という常識を覆す長さ、そのストーリー性、発想力、作品の力、そしてなによりMJというアーティストのパワー。すべてが桁外れで、どれほどの影響をその後の業界に与えるかと考えただけで、震えた記憶がある。寒かったからではない。

   教室で生徒に見せると、全員が食い入るように見ていた。余談だが、当時、レコードからCDへとメディアが移行していく最中で、その頃生徒に、いずれ音楽は電話回線を通じて売り買いされる時代になる、音源をパッケージするのはエンドユーザーとしてのリスナーの作業になる、と話したのだが、誰も信じなかった。その話の裏づけは、実はMJにあったのだが、長くなるのでやめる。

   もちろんジャクソン5時代からMJは聴いていたけれど、筆者にとっては後にも先にも「スリラー」こそがMJの最も記憶に残り、心に残る作品となった。

   この20年、MJの話題は幼児虐待だの、整形だのといった音楽とは無関係のものばかりで、気がつけば亡くなっていた。

   MJの人生が50年しかないなどと誰が想像しただろう?

   だが、50年の人生のうち40数年を歌い続けていることに驚嘆し、そして感謝する。MJの輝ける80年代は、筆者にとっても輝ける80年代だったし、40数年の大半を共有していることに感謝する。

   MJは生涯で7億5千万以上のCDを売り上げている。その数字は、想像の埒外だ。人の人生を数量的に判断するつもりはないが、こんなアーティストには生涯2人と出会わないだろう。

   今日現在、MJの作品が、アメリカでアルバムチャートのトップ10の内9枚を占めたとか、03年に出たベスト盤『Number Ones』がイギリスでトップになったとか聞く。どれほどMJの残した足跡が偉大であり、普遍的なものだったか、そしてMJが忘れたくない存在であるかの証明だろう。

   安らかに、そして天国へ!

加藤 晋



◆加藤 普(かとう・あきら)プロフィール
1949年島根県生まれ。早稲田大学中退。フリーランスのライター・編集者として多くの出版物の創刊・制作に関わる。70~80年代の代表的音楽誌・ロッキンFの創刊メンバー&副編、編集長代行。現在、新星堂フリーペーパー・DROPSのチーフ・ライター&エディター。