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西郷どんが残した「人生の教え」 わずか20ページに重厚な中身

■『西郷南洲遺訓』(山田済斎編、岩波文庫)

   何の書籍か説明は要るまい。編者は漢学者の山田済斎。名経世家・山田方谷の義理の孫と聞く。

   遺訓そのものは、わずか20頁に過ぎない。そこで本書は、南洲の他の言行録等を収載し一冊としている。すなわち遺訓に次いで「南洲手抄言志録」を掲げ、それ以降の章は「遺敎」(教え)、「遺篇」(詩など)、「遺讀」(手紙)が続き、終章に「逸話」として編者が伝聞で知るところを記している。

   解題を加えても百頁余と、まことに薄い、上着の内ポケットに収まる文庫本である。

法治の理を示す美談

   本は薄くとも、もとより中身は重厚である。

   遺訓の三〇、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして國家の大業は成し得られぬなり」は特に有名だ。維新前の殺伐とした空気と、維新後の顕官の贅沢の落差を思えば、この言の重みは格別である。

   南洲はこれに続けて「去れ共、个様(かよう)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞ」と述べる。巨星も距離が遠ければ小さな光にしか映らぬ、ということか。

   趣旨は異なるが、凡俗が偉人を見る、で連想する逸話がある。

   陸軍大将たる南洲が、門鑑(今でいう身分証)を忘れ、しかも高官らしからぬ粗末な姿で出仕したところ、よもや大将と思わぬ門番に入構を拒まれた一件である。足止めを食った当の南洲が、門番の職務に忠実なることを称えた美談として伝えられている。

   これが美談となる、ということは、南洲以外の顕官の言動は違った、とも読める。北海道開拓使官有物払下事件をはじめとする明治以降の涜職の歴史は、権力者に成り上がった薩長の驕りに端を発するとも聞く。

   規律が万人に等しく適用されるのが法治国家である。高位高官の者であってもこの理は揺るがせに出来ず、位が高いほど率先してこれを墨守するべきことを、この美談は今に伝えている。

南洲にまつわるエピソードが興味深い

   佐藤一斎の『言志四録』も夙に有名だが、第二章は、南洲の手によるその抄録である。一斎の箴言とその読み下し文を掲げた後、編者はそこに寸評を加える。終章の「逸話」と併せ、そこに示される南洲にまつわるエピソードが興味深い。

   例えば、箴言四七に続く評は以下の如くである。

「某氏南洲に面して仕官を求む。南洲曰ふ、汝俸給幾許を求むるやと。某曰ふ、三十圓ばかりと。南洲乃ち三十圓を與へて曰ふ、汝に一月の俸金を與へん、汝は宜しく汝の心に向うて我が才力如何を問ふべしと。其人復た来らず。」

   己がその俸給に値するかを自問せしめたこの南洲の言葉は、福島県二本松城にある戒石銘にもつながろう。戒石銘は、二本松藩の五代藩主・丹羽高寛公が、儒学者・岩井田昨非の勧めに従い、藩士の戒めとするべく碑に彫らせた文である。

   二本松城址に赴くと、登城するための緩やかな坂道の途上に、大きな花崗岩の碑が鎮座している。「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」とあるその銘文の意味は、「お前がお上から戴く俸禄(給料)は、民の汗と脂の結晶である。下々の民は虐げ易いけれど、神をあざむくことはできない」(二本松市ホームページより)とされる。

   南洲は若き頃、薩摩藩の徴税吏であったが、納税が滞る民に自らの俸給を施すなどしていたと聞く。本書でも、西南の役で戦線拡大を提案された南洲は「戰地を廣げると農作を荒らし、民家を燒き、人民の苦しみとなる。戰は城(熊本)で定まる。戰地を廣げること相成らず」と下命したなどの逸話が出てくる。

   戒石銘の精神を体現した人物というべきではないか。

   かつての内務官僚は戒石銘を貴んだと聞くが、戦後の歴代自治次官の中にも、新入省者への訓示でこの銘文を紹介した方があるという。

   戒石銘は、現代にあっても、否、現代だからこそ、官吏がその上下を問わず服膺するべきと思う。同時に、この実践と言える南洲遺訓も座右に置くべきものであろう。

酔漢(経済官庁・Ⅰ種)

【霞ヶ関官僚が読む本】現役の霞ヶ関官僚幹部らが交代で「本や資料をどう読むか」「読書を仕事にどう生かすのか」などを綴るひと味変わった書評コラムです。