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真に恐ろしいのは化け物ではなく...

■『山怪』『山怪 弐』(田中康弘著、山と渓谷社)

   著者は、日本列島を隈なく歩き回ってきた写真家であり、特にマタギ(猟師)との親交が深い方と聞く。

   その交流を生かし、人々が山で遭遇した怪奇譚を聞き書きした本書は、山深きこの国の知られざる姿を描き出す。ある時代の人々の心裡を知りうる民俗学的な史料としての意義もある珍本というべきだろう。

怪奇譚のバリエーション

   二冊を通読して、人間には、山で怪奇現象に遭うタイプと遭わないタイプがあることを知る。遭わないタイプは皆さん豪快な方々だが、では遭うタイプが臆病者かというとそうでもないらしい。

   霊魂については、孔子の訓えに随い、敬して遠ざけるが得策と思うが、できればその現象に遭わないタイプでありたいものである。

   さて、紹介される怪奇譚であるが、樵(きこり)がどうしても切れない木があるとか、狐に化かされて彷徨う経験、さらには人間ではない何者かとの遭遇など、実にさまざまである。

   だがざっくり分類すれば、霊魂・化物、動植物、物音、光や炎、気配といったところであろうか。

   霊魂・化物は、よくある幽霊話や、幼子を遠方に連れ去る天狗のような何物かである。動物では、やはり狐と狸が多くの人を山中で迷わせているが、蛇の怪異さも際立つ。これらは冤罪だろう。植物は巨木の不思議な力が示されることが多い。物音の中には、自衛隊の砲撃訓練音と特定された例もあるが、どうにも分からない不思議な音も存在するようだ。光はいわゆる人魂や狐火だが、動物の死体から発せられるリンが燃えるのだなど原因が推測されつつも、これも分からない光がある。気配は、後をつけてくる何物かの気配なのだが、絶対に振り返るな、という言伝えと併せて恐怖心を煽られる話が出てくる。

   この分類から外れるのは、二度目には絶対に発見できない、山中の幻の楼閣の話くらいであろうか。

   面白いのは、人間を化かすのがもっぱら狐である地方と、狸ばかりに化かされる地方が存在することだ。両方が化かす地方は著者も見つけていないようだが、日本列島の多様性はこんなところにも顕れている。

明るさの陰に潜む異形の存在

   現代の都市型生活にあっては、漆黒の闇の何物かを畏れる機会はほぼないが、 本書に見るような畏れを持つことは、かつては生活上大切な地位を占めていたのかも知れない。

   すなわち、穢れへの畏れが神への信仰に転換するという民俗学の仮説(新谷尚紀著『ケガレからカミへ』)を思うと、畏れと信仰は一体だったのではないか、ということだ。江戸期までの日本人が自然と巧みに共存してきたことは、この畏れと無縁ではないように思われる。

   同様に、現代人にあっても、超自然的な何物かの存在は信じなくとも、科学的に説明できぬ分野を承っておくことは、傲慢な人間存在を謙虚にさせる効用が期待できるのではないか。この点、人間を信仰から切り離し自信過剰に仕立ててきた科学が、環境破壊に警鐘を鳴らし質素な生活を推奨するに至るのは、皮肉なことである。

   そんなことを思いつつ読み進めていると、狐火は不法を企む人間が密かに山に入った明かりだ、との記述に行き当たった。

   なるほど真に恐ろしいのは化物ではなく人間だろう。夜釣りで、野犬の気配は恐れずとも明かりなく近づく人影に身構えた経験を思い出し、苦笑せざるを得なかった。

   だがその苦笑も、「恐ろしきは人間」からの次の連想で立ち消えてしまった。

   明るいはずの都市で起きた、児童虐待や拉致殺人、違法建築物の倒壊などという陰惨な事件・事故が、否応なく思い出されたからである。

   怯える人の心の中に棲んで怪奇現象を見せる何物かは不確かな存在に過ぎぬ。だが、故意であれ過失であれ加害する側の心裡には、確実に異形の何物かが潜んでいる。

   この異形の何物かの生育を阻む力は、残念ながら現代科学にはなく、さりとて畏れと信仰の時代への逆行もあるまい。やはり人間が作るシステムを人間が運用する中で、不断に改善していくしかない。

   そこに不可欠なのは共感と強い意思力であろう。「公」を支える者の責任重きことを、改めて痛覚する次第である。

酔漢(経済官庁・Ⅰ種)

【霞ヶ関官僚が読む本】現役の霞ヶ関官僚幹部らが交代で「本や資料をどう読むか」「読書を仕事にどう生かすのか」などを綴るひと味変わった書評コラムです。