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言い方、伝え方一つで、医療が変わる

■「医療現場の行動経済学――すれ違う医者と患者――」(大竹文雄・平井啓編著、東洋経済新報社)

「胆のうポリープ、ちょっと大きくなりましたね。もう、そろそろ取った方がいいように思いますが・・・」

   この夏、医師のこの一言で、評者にとって人生初の、入院・手術が決まった。

   20年にわたって経過観察を続けていた胆のうポリープだった。長年、人間ドックを受けるたびに「経過を見ましょう」で済んでいたので、今年も大丈夫だろうと高をくくっていたのだが、超音波検査で気になる異変があったらしい。

   突然の宣告に焦った私を安心させようとするかのように、10年来の顔なじみの医師は、大したことではないという感じで、こう語った。

「9割方、大丈夫だと思いますが、そろそろ年齢も年齢なので、万一のことを考えてのことです」
「腹腔鏡での胆のう切除なんて、誰でもやってますから、心配いりませんよ」
「慌てる必要はありません。20年もかけて育ってきたんだし、一刻を争うようなことではありません。年内、どこかで時間がとれたときに、手術すればいいと思います」

   そう言われても、落ち着かないので、3週間後、夏休みを利用して取った。結果は良性で事なきを得たが、手術までの日々、ときどき、「9割方、大丈夫」という医師の言葉を思い出しては不安になった。

(9割方、大丈夫ということは、「1割」は危ないということか・・・)
(どうせ、取らなくてはならないのだったら、もっと早く、取った方がいいと言ってくれればよかったのに。もし手遅れだったら・・・)

   がん体験のある連れ合い(医療職)は、「腹腔鏡で取れるんでしょう。なら、大したことない。何、心配してるのよ」と一笑に付すが、つい、よからぬ方向へと思考が傾く。

   医師の説明と患者の受け止めには、意外なほど、ギャップがあることを思い知らされた経験だった。

医師の言い方一つで、患者の行動は大きく変わる

   本書は、このような、医療現場でしばしば見られる医師と患者のすれ違いが、なぜ起こるのか、また、検診の受診率を上げるには、どのようなメッセージを送れば効果的かなど、行動経済学の知見に基づき、わかりやすく教えてくれる。最近、霞ヶ関で、流行っているナッジ理論についても、多くの具体例が挙げられ、理解を深める上で役に立つ。

   がん患者を対象に行われた研究において、「この治療を受けると90%の人が治ります」という文章を提示した場合と、「この治療を受けても10%の人は治りません」という文章を提示した場合では、「治療を受ける」と回答した割合は、前者の方が10%程度多かったという。

   実質的に両者は、同じ内容の文章だが、患者の受け止めは大きく異なっていたのである。

   行動経済学は、こうした差異が生じる理由を、「損失回避」という人間の思考のクセから説明する。数値的には同じだとしても、利得と損失では、損失の方が本人にとって大きく感じられるというのだ。一説には、利得よりも損失の方が2.5倍の大きさで感じるそうだ。

   その結果、どうしても損失が生じるような選択には消極的になりがちとなる。しばしば株の損切りが難しいといわれるが、それも、こうした特性によるという。

   伝統的な経済学の世界では、人間は合理的な存在であることが前提となっているが、我々が日常的に経験しているように、決してそんなことはない。医療現場で、よりよい意思決定を実現するためには、人間の認知にはこうしたバイアスがあることを認識した上で、医師・患者間のコミュニケーションが行われる必要があるのだ。

ちょっとした工夫で、がん検診の受診率がアップ

   がんに罹患する国民が2人に1人となっている今日において、がん検診の受診率アップは公衆衛生上の課題となっている。

   これほど恐れられている病気でありながら、諸外国と比して、その受診率は決して高いとはいえない。恐れられているから受診しないのか、それとも、気にはなっているが多忙にかまけて先送りしているのか、事情は人それぞれであろう。しかし、いずれにせよ、自治体が、勧奨通知を送っても、なかなか受診してもらえないのが実情である。

   ところが昨今、行動経済学が、がん検診の受診率アップに貢献できるという話が盛り上がっている。本書では、八王子市の大腸がん検診の受診勧奨の事例が取り上げられている。

   八王子市では、前年に大腸がん検診を受診した者に対し、その翌年、便検査キットを送付している。2年前、未受診者の受診アップを目指して、未受診者を対象に、受診勧奨ハガキを送ることとした。文面は、2つ用意し、パターンAは、「今年度も大腸がん検診を受診すれば、来年度も便検査キットを送付します」、パターンBは、「今年度に大腸がん検診を受診しなければ、来年度は便検査キットが送付されません」というものだった。

   結果は、パターンAの受診率が22.7%だったのに対し、パターンBは29.9%と有意に高かった。

   これもまた、前述の「損失回避」で説明されるという。受診しないと翌年、便検査キットが送られてこないという損失を回避したいという思いが、受診率を高めたというのだ。

   通知の工夫一つで、受診率がアップするという事実は大きい。追加コストをかけずに、人々の行動変容を促し、政策効果を高めることができるというのだから、この手法(ナッジ)への関心が高まるのは無理もない。

行動経済学の活用余地は大きいが、限界やリスクに留意が必要

   本書では、大腸がん検診のほか、乳がん検診、肝がん予防のための肝炎ウイルス検査、臓器提供の意思表示など、様々な分野において、ナッジの活用可能性があることを教えてくれる。

   ただ、残念ながら万能ではないようだ。時として、効果が短期的だったり、人々を混乱させてしまい、想定しなかった抵抗や効果を生んでしまうことがあるという。また、臓器提供の意思表示などでの活用は、行き過ぎた介入といった倫理的な問題を引き起こす可能性もある。

   臓器提供の意思表示については、日本やドイツでは、提供してもよいと思う場合に意思表示をすることとなっているが(オプトイン)、フランスやオーストリアでは提供することがデフォルトとなっており、提供したくない場合に意思表示することとなっている(オプトアウト)。その結果、日本やドイツでは臓器提供に同意する者が10%台にとどまっているのに対し、フランスやオーストリアではほぼ100%になっている。

   こうした大きな差が生じた理由を、国民性の一言で片付けることはできないだろう。デフォルトの設定が大きな影響を与えたことは想像に難くない。臓器提供というセンシティブな問題であるだけに、デフォルトをどう設定するかそれ自体について、慎重な検討が必要だろう。

   行動経済学の活用余地は大きい。しかし、同時に、活用する分野によっては、倫理的・社会的な課題を含めて、丁寧に検討していくことが必要な場合もある。今後、様々な試行錯誤を積み重ねながら、医療現場の課題解決に応用されていくことを期待したい。

JOJO(厚生労働省)

【霞ヶ関官僚が読む本】現役の霞ヶ関官僚幹部らが交代で「本や資料をどう読むか」「読書を仕事にどう生かすのか」などを綴るひと味変わった書評コラムです。