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刺青裁判に思う 里見清一さんは「なくてもいいもの」だからこだわる

   週刊新潮(12月6日号)の「医の中の蛙」で、内科医の里見清一さんが刺青と医療のかかわりを論じている。刺青を彫るのに医師免許は必要か否かという、例の裁判の話である。

   「私の娘は大学生だが、その専攻科目を何度聞いてもよく分からない」で始まるコラムは、「あまりに生活からかけ離れた『どうでもいいもの』は、やはりお上公認の『芸術』にはなりにくいようで...」と展開していく。そして、初診外来に訪れた壮年の男性が登場する。

「問診表に、職業『彫り師』と大きな字で書いてあった。この書きっぷりで、この人は仕事に誇りをもっていると分かる」

   そのSさんの背中には、見事な不動明王が宿る。感心した里見さんの「綺麗ですね」のひとことで、彼は「待ってました」とばかりに話し始める。ネットで探した外国人旅行者から「芸術的な彫り物」を頼まれること、日本では400年の歴史を持つ伝統芸術であること、今は米当局が認可した色素しか使っていないこと、などなど。

「ところが、である。今Sさんの業界は、未曽有の危機にあるという」

   話はここで、大阪での裁判に移る。彫り師の被告(30)は、医師免許がないのに3人の体にタトゥーを施したとして略式起訴された。しかし罰金30万円の支払いを拒んで正式の裁判になる。昨年9月、大阪地裁は有罪判決を下し、被告は控訴した。

   摘発側の根拠は、針先に色素をつけて皮膚の表面に色を入れる行為は医師しかできない、とする厚労省通達(2001年)である。

  • 黒く彫られたタトゥー
    黒く彫られたタトゥー
  • 黒く彫られたタトゥー

お上の怠慢じゃないのか

   Sさんから裁判の概要を聞いて、里見さんは「ぶっ飛んでしまった」という。

「彫ってしまった刺青を除去する皮膚科医はいるらしいが、刺青をやる人間は聞いたことがない...刺青をやるために医師免許を取ろうという奴はいない。刺青は、絵を描き、色彩を入れ、という芸術であって、医学とは関係ない」

   里見さんは、有罪とした裁判官が本気で刺青は医者がやるべきだと思っているとすれば「バカである」と断じる。専門コラムには時に歯切れの良さも必要だ。

   「医学部ではそんなのは教わらないし、医学部を出てもできない」。鍼灸のように、医師免許とは別のライセンス制度がないのは彫り師たちの罪ではない、と断じる里見さん。では誰の責任か。それは...

「今まで放っていた『お上』の不作為であり、なのにいきなり『医師の資格を持て』なんて、因縁をつけているとしか思えない...つまりは衛生面・社会面および倫理面をカバーするライセンス制度を作らない(作るつもりもない)『お上』側の怠慢である」

   里見さんの怒りの舌鋒は、結語に向けて尖る尖る。

「そこには、一般の人にとって刺青は『なくてもいい』し、ヤクザ関係だという悪い印象があるから世論も支持するだろう、という小賢しい計算が透けて見える...私は、『なくてもいいもの』が『お上』によって潰されるのは良いことだとは思えない」

医師ゆえの説得力

   おそらく上記コラムの原稿締め切りに前後した大阪高裁の控訴審判決(11月14日)は「医療を目的とする行為ではない」と被告の主張を認め、逆転無罪となった。さらに、彫り師に医師免許を求めれば、憲法が保障する職業選択の自由との関係で疑義が生じるとし、彫り師のプロ意識にも一定の理解を示す内容だった。

   筆者(本名・國頭英夫さん)は日赤医療センターの化学療法科部長。がん治療が専門で、この作品でも「私なんかが(刺青を)やろうとしたら、絵の巧拙以前に、それこそ『皮膚障害を起こす』危険がある」とユーモアを交えて触れている。

   タトゥー裁判のトピックを織り込み、自らの主張を込めた里見エッセイが説得力を持つのは、やはり現役医師という肩書ゆえだろう。素人による凡百の論評を超えて、「そんなアホな、私らできませんて」という一蹴は強力だ。

   「なくてもいいもの」だからこそ、そっとしておけ。納得の診断である。

冨永 格

冨永格(とみなが・ただし)

コラムニスト。1956年、静岡生まれ。朝日新聞で経済部デスク、ブリュッセル支局長、パリ支局長などを歴任、2007年から6年間「天声人語」を担当した。欧州駐在の特別編集委員を経て退職。朝日カルチャーセンター「文章教室」の監修講師を務める。趣味は料理と街歩き、スポーツカーの運転。6速MTのやんちゃロータス乗り。