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割り切れない問題を別の視点で考える「内山哲学」の魅力

■『内山節と読む世界と日本の古典50冊』(著・内山節 農文協)

   群馬県上野村に住む哲学者、内山節さんは全国にファンをもつ。高度成長の始まりとともに、日本人がキツネにだまされなくなったことを説いた著作をご存知の人もいるかもしれない。内山哲学は、個人と社会というフレームワークではなく、人間は関係性の中で生きて、割り切れない問題と折り合いをつける知恵をもつというフレームが特長。朝のワイドショーでは毎日のように、割り切れない問題をあれこれと論じているが、そうした問題を別の視点で考えたいときに、内山哲学から得るものは多い。

   同氏の著作は15巻の全集となっているが、本書は、これまで多くの古典を読んだ著者が、いま読み直しても価値があると感じる内外の古典50冊を取り上げたものである。「かがり火」という、地域のために奮闘する全国ネットワークの雑誌購読者向けに連載されたもの。思想・哲学から政治・社会、労働と技術、宗教と多岐にわたるが、古典から、私たちの来し方行く末を考えるのに、好みに合わせて読み進める内容である。

労働者の生きがいはどこに

   個人の自立、自己実現といった主体性は、西洋的恣意が作り出したが、そうした発想が限界を示している、と著者は説く。フランスの歴史学者ルフランは、1957年と1970年に「労働と労働者の歴史」を二度刊行しているが、高度成長の前後で労働の様相は大きく変化した。生産効率がもたらす豊かさとひきかえに、作業の標準化、マニュアル化が工場や店舗で進み、労働者は単純労働をこなす作業員となった。その後、ホワイトカラーにもその流れが及んでいる。

   売り上げや利益への貢献が労働の生きがいにとって代わり、企業は生き残るために、従業員の生きがいよりも利益を上げつづけるためのシステムとなり、そのサイクルを変えようとすることは保身を脅かす時代。このサイクルから自由になろうとする人が増加しているのは、労働に生きがいを求める自然な成り行きなのだろう。

小さな集団と多様な精神の習慣

   18世紀に王制が打倒され市民社会が誕生した。それが通過点だとすれば、未来の目標は何なのか。20世紀初頭の社会学者マッキーヴァは、「コミュニティ」を著し、自分たちが共有する世界をもつという感覚がシェアされる集団がコミュニティであり、それは普遍的なものだと主張した。この動きは現在ではローカリズムとも呼ばれている。単純な地域主義ではなく、関係性のネットワークが地域外とも結ばれる世界。

   19世紀の米国社会を研究したフランスのトクヴィルが、当時の米市民社会を強権的で全体主義的なものとみていたのも同様の問題意識からだった。「開拓の精神」で労働を頼りに財産と地位を目指すという精神の習慣に危うさを感じていたのである。彼が理想としたのは、いくつかの小さな集団に個人が所属し、互いに矛盾する精神の習慣の間の折り合いをつける知恵を身につけていくこと。それが社会の健全性を生むのだと。いまの日本で、都会でも、いなかでも、SNSも利用してそうした動きが出てきているのは良いことなのだろう。

華厳経に学ぶ

   哲学の世界では19世紀以降、仏教思想から学ぶ傾向があると言う。西洋哲学の限界を突破する、論理的考察以外に真理を探究したい、人間中心ではなく生きとし生けるもの、といいった問題意識からである。本書では、般若心経、維摩経、歎異抄など8冊を紹介しているが、華厳経が著者のお好みである。東大寺で初めて講義された華厳経は「一即一切」を説く。すべてのものは奥底で結び合い、融けあっているという徹底した関係論である。悟りとは、一切が結び合っているという悟り。因果関係は機械的に分けることはできず、すべての要素が因でもあり縁でもあると。

   われわれの意識にはつねに、自分が出てくるが、同時に、自分はすべてとつながっている、と意識することもできる。そのことが、上野村に長く暮らす哲学者から読者への一番のメッセージのように感じる。

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