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現代社会における「正統」復権の可能性

■『異端の時代-正統のかたちを求めて』(著・森本あんり 岩波新書)

   本書は、まず丸山真男の正統論であるL正統(legitimacy)とO正統(orthodoxy)から始まり、神学・宗教学的視点から、O正統概念を「厳密にはキリスト教世界にも存在しない」と批判する。次いで正統の拠りどころとされる正典、教義、聖職者のいずれもが正統を創り出したのではなく、「それ以前から長期にわたり人々の間で正統と信じられてきたこと」の結晶に過ぎないことを、キリスト教史から説き起こす。そして異端に視点を移し、宗教において異端が異教から正統に成長し、次の異端とのせめぎあいが始まる動態を示す。さらに中世キリスト教における秘跡に係る議論を題材にし、異端の高貴さと正統の凡俗さを並べ、なおも正統の要件として「主観的な熱情と制度的な安定性」、つまり「人間と社会の欠陥に寛容」で「清濁併せ呑む」ことを指摘する。

「反知性主義」が根付かない日本

   そしてG.K.チェスタトンが「絵の本質は額縁にある」と述べた自由と限定の弁証法-外周があることで自由は実質を与えられる-を参照し、米国での「自由の創設」について、1620年のメイフラワー契約に始まり、各州でのピューリタン的な自由の創設という歴史的経験が、人々が合衆国憲法を正統と認める権威となったとする。他方、個人の内面から出発し、組織化して教団となり発展したのがキリスト教であるとし、その過程で、個人の内面の集合体に額縁が与えられ正統が成立することで、丸山によれば日本にはない、宗教権力と世俗権力の二元焦点的な社会が成立した。そして、日本ではそうした形で政治とは別の価値軸が形成されず、権力への異議申し立ての立脚点に欠けたことが、「反知性主義」-知性と権力が結びついた「知性主義」への反発-が根付かない理由であると述べる。

   そして既存の制度や権威を否定し、自己の内心を審理の最終審級の座とするような考え方の蔓延を「個人主義の宗教化」と評し、そのことにより公共的な権威としての正統の融解を招くだけでなく、異端も明確な輪郭を持ち得なくなることにつながるとする。この考え方は、本来の異端-正統を批判するだけではなく、自身が正統を担う気概を持つ-とは違う「なんちゃって異端」に過ぎない。こうした「宗教化した個人主義」は組織形成を志向しないが、一方で組織や集団を形成するのが宗教であり、「宗教性の裏付けによって個人と社会がともに成熟してゆく可能性」を示唆する。

   さらにポピュリズム現象について考察し、主張の左右を問わずそれが受け入られるのは、一般市民に安全な立場から正統性を「堪能する機会」を与えているから、と述べる。最後に著者が考える、現代社会における正統の復権の可能性が展開され、復権への前提を述べた4行が、本書のクライマックスとなる。

「正統」の脆さを説く文章はストレートに響いた

   米国宗教・精神史上の著名人が並ぶ『反知性主義』(2015)に比べ、本書は堅く、すっと入りにくい個所もあった。また雑誌連載の再編成と、別の発表原稿等を合わせて一冊にしたものであるためか、終盤部分で主題のつかみにくさもあった。

   しかしながら、「正統」の脆さを説く以下のような文章はストレートに響いた。感じるものがあれば、手に取ることを勧めたい。

「批判者たちは他者攻撃においては仲間意識を共有しても、その後に来るべき新たな秩序の形成をともに担うという段になると、とたんに腰が引けてくる。(略)ここには、伝統の意義を否定し、既存の制度を葬り、正統の権威を引きずり降ろした後に残る空虚さの予感がある」
「一つの社会に複数の中心を置いて権力を分散させ、特定の集団が覇権を握らないように配慮するのは、多元主義が培ってきた知恵である。こうしたチェック&バランスも、ポピュリストには鬱陶しいだけである」

厚生労働省 ミョウガ