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ショパンの天才ぶり示す「練習曲 Op.10」 20代前半で「時代を変えた名曲」作る

   日本では、卒業試験・入学試験のシーズンです。

   音楽大学などのピアノ専攻の試験では、やはり基礎的な技術力を問うために、課題曲として「練習曲」が取り上げられることが多くありますが、今日はその中で間違いなくもっとも登場回数が多い曲集、ショパンの「練習曲集 Op.10」を取り上げましょう。

   試験を受ける学生さんにとっては頭の痛い課題でもある「ショパンの練習曲」たちですが、これらは間違いなく、時代を変えた名曲たちです。

  • 若きショパンの肖像
    若きショパンの肖像
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ロシアに占領された祖国に帰らずパリにとどまる

   ショパンは生涯で27曲の練習曲を作曲しており、作品番号(Op.)10として12曲を、Op.25として12曲を、それぞれまとめて出版しています。残り3曲は単独曲で演奏される機会も少なく、一般的に「ショパンの練習曲」というとOp.10,25の合計24曲を指すことがほとんどです。なぜなら、ショパンは意図して12?2=24としたからで、これは長調・短調すべての調で作曲し、曲集としたバッハの「平均律クラヴィーア曲集」にならっているからです。

   そのうち、最初の12曲である、Op.10にフォーカスしたいと思います。この12曲の中には、日本では「別れの曲」と呼ばれている第3番や、右手がほとんど鍵盤の黒鍵だけを使って演奏する第5番「黒鍵」、そして、ショパンが祖国の蜂起の知らせを受けて怒りとともに書いたといわれる第12番「革命」などが含まれます。

   1810年、フランス人の父と、ポーランド人の母の元、当時はワルシャワ公国だった現在のポーランドに生まれたフレデリック・ショパンは、この連載でも度々取り上げています。若くして才能を表したため、周囲のすすめにより、「田舎」であるポーランドを出て、はじめは音楽の都ウィーンに行き、そこでうまくいかないと、花の都パリを目指しました。実際はパリ経由ロンドン行きの交通許可証を持っていたようですが、先祖の地、フランスの水があったのか、パリで長くとどまることになります。彼が後にした祖国は、ロシアの支配に抵抗して蜂起が起こり、失敗したため、ロシアに占領されてしまいます。ショパンはそんな変わり果てた祖国に帰ることを拒否したため、人生後半、ほぼ半分の18年間を、パリを拠点として過ごすことになりました。

新しい楽器「ピアノ」で練習曲が必須に

   19世紀前半は、ちょうどピアノの勃興期で、現代では「ピアノフォルテ」と呼ばれるようになったまだまだ音も小さく、表現の幅にも限りが有る過渡期の楽器から、金属加工技術などの発達とともに、大ホールでも演奏可能な現代の「ピアノ」が生み出される時代だったのです。

   そんな次々とニューモデルが発表される「ピアノ」の音楽で求められたのは、「練習曲」というジャンルでした。新しい楽器ですし、両手で別の動きをする結構演奏が難しい楽器ですから、トレーニングなしではなかなか弾けません。そして、オーディオがなかった時代ですから、家庭用の楽器としても大人気だったのです。革命で力をつけた市民層が、チェンバロを宮殿において楽しんだ旧貴族階級のマネをする、という意味合いもあったでしょう。現代につながる「ピアノのお稽古」は、この時代から始まったのです。また、そこには、他の楽器だと良家の子女には練習することにはばかりがあったのですが、演奏中は観客にたいし横を向いていて、長いスカートでも弾きやすい、つまり「お嬢様にとって上品な楽器である」という事情もありました。演奏人口が増え、レッスン人口が増え、学ぶ方にとっても、教える方にとっても、そして、「ピアノを売る」勢力にとっても「練習曲」は必須の曲ジャンルでした。この時代は、「デモ演奏」をして、ピアノを売っていたのです。

   現代でもピアノ初学者を悩ましている「チェルニーの練習曲集」や、モシュコフスキーやモシュレスなどの現代でも使われている練習曲たちが生み出されました。

   生涯にわたってほとんどピアノ曲しか作曲しなかったショパンも当然のごとく「練習曲集」に手を染めますが、「ワルツ」や「ノクターン」でもそうだったように、ショパンは先人たちが考案したそれらの曲を、単なる「三拍子の軽快なダンスの曲」や、「夜想曲という名の物憂げなゆっくりな曲」という形式上の模倣だけをすることはなく、実に様々な創意工夫を持ち込み、人の心に訴える「内容の有る」名曲を生み出していったのです。

難しいのに美しい

   練習曲集においても例外ではありませんでした。指の技術の訓練という実用性もちゃんと確保しながら、彼はどんな作曲家も思いつかなかった「ピアノ芸術としての独自性」を各曲に盛り込み、練習曲の金字塔を生み出してしまったのです。あまりにも芸術的すぎるために、練習曲集、と銘打っていても、プロのピアニストが演奏会に頻繁にあげる曲となっていますし、これを入試やコンクールで弾かねばならない学生さんにとっては、「単に指が回ればよいのではない」芸術的表現が求められるのです。これは恐るべきことです。「難しいだけの曲」ではなく、「難しいのに美しい」のです。

   そして、作品10の12曲に関しては、驚くべきことが2つ。ショパンは、ほとんど先生に師事していないのです。ポーランド時代に、無名のピアニストと音楽院の院長の二人に師事した事実はありますが、国を後にしてからは、ほぼ先生らしい先生を持っていません。彼は自分の音楽のみを信じて作曲を続けたのです。あえて、あるとすれば、この二人がショパンに課題として与えたバッハとモーツァルト。ショパンが生涯尊敬した二人の天才の作品だけは、成人以後のショパンが手本としたところでした。

   しかし、他の作曲家の「練習曲」とショパンの作品が圧倒的に違うところは、技術の練習のために「歌」を犠牲にしていないところなのです。チェルニー作品などに見られる「技術練習のための無味乾燥な反復」は全く見られず、ショパンの練習曲は、いつも歌が溢れています。「黒鍵のエチュード」は「黒鍵縛り」をショパンが自らに課したからでしょうか、すこし似た音形が連続しますが、そのためにショパン自身は少し気に入っていなかったらしく、クララ・シューマンが演奏会で取り上げる、と聞いたときに「なんでわざわざあんなつまらない曲を!」と感想を記した手紙が残っています。

現代の入試やコンクールでも「必ず」課題に出される

   そして、2点目は、今日取り上げたOp.10は、大部分がワルシャワ時代に書かれていた、という事実です。パリに落ち着いて書かれた以後の作品は、もちろん、パリにおいて交わった作曲家や、そこで聞いた最先端の音楽の影響、ということも考えられますが、Op.10の12曲に関しては、「20歳そこそこの、ポーランドという音楽的には田舎だった都市をほぼ出ないで書いた」ということなのです。これには「天才」という言葉でしか説明がつけられません。

   実際、ピアニストの観点から見ても、ショパンの練習曲集を超える芸術性を持った曲集は存在しないと思います。

   この曲は、パリですでに超絶技巧ピアニストとして、作曲家として有名だったフランツ・リストに捧げられています。当然「ピアノの魔人」リストも練習曲をたくさん残していますが、やはりテクニックが全面に押し出された派手な曲が多く、心に沁み入るようなショパン作品の前では分が悪いと言わざるを得ません。

   体力がなかったために、自ら演奏会を開くよりは、ピアノの個人教授のほうが仕事として好きだった、といわれるショパンですが、当然、自作の「練習曲集」も課題として生徒に与えられていたことでしょう。以後、数え切れないピアノ学習者がショパンの練習曲に取り組んでいるわけです。

   弱冠20歳の天才が残した「練習曲」がピアノと音楽の歴史に、計り知れないほどの大きな貢献をしているのです。

   現代の入試やコンクールにおいて、「練習曲」の課題曲として、他の人、つまり、リストやスクリャービンやドビュッシーやラフマニノフ・・・彼らもいずれも「ピアニストであり作曲家」でした・・・・の「練習曲」作品が選択的候補に挙げられることがありますが、ショパンの練習曲だけは、「必ず」「マスト」で課題に出されます。

   この事実からも言えますが、ショパンの練習曲集を超える名練習曲は、まだ現れていない、と多くの人が感じているようです。

本田聖嗣

本田聖嗣プロフィール

私立麻布中学・高校卒業後、東京藝術大学器楽科ピアノ専攻を卒業。在学中にパリ国立高等音楽院ピアノ科に合格、ピアノ科・室内楽科の両方でプルミエ・プリを受賞して卒業し、フランス高等音楽家資格を取得。仏・伊などの数々の国際ピアノコンクールにおいて幾多の賞を受賞し、フランス及び東京を中心にソロ・室内楽の両面で活動を開始する。オクタヴィアレコードより発売した2枚目のCDは「レコード芸術」誌にて準特選盤を獲得。演奏活動以外でも、ドラマ・映画などの音楽の作曲・演奏を担当したり、NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」や、インターネットクラシックラジオ「OTTAVA」のプレゼンターを務めるほか、テレビにも多数出演している。日本演奏連盟会員。