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孤独でも「この運命に打ち勝つ」 ベートーヴェン「悲愴」は新しくエネルギッシュ

   作曲家は、多かれ少なかれ「籠もること」の得意な人種かもしれません。現在、世界は新型コロナウイルス感染症との戦いで、家に籠もることが多くの地域で求められています。

   演奏家と違い、作曲家はもともと「籠もらなければいけない職業」といえるでしょう。一定期間集中して音楽を考え、そして、多くの場合それを楽譜に書く・・・現代ではパソコンで入力することも多くなっていますが、それでもかなりの時間がかかります・・・・ことが必要なわけですから、孤独に、籠もって作曲作業をするわけです。私の母校であるパリ国立高等音楽院の作曲関係のクラスでも、弁当を持ち込んで「学校の部屋に12時間缶詰」になって曲や課題を仕上げる、という試験があり、随分と大変だなあ、とピアノ科の生徒としては横目で見て感じていました。

  • 楽譜冒頭には「大ソナタ悲愴」というタイトルがフランス語で書かれているが、これは初版からの伝統で、ベートーヴェンの「公認の題名」と考えられる
    楽譜冒頭には「大ソナタ悲愴」というタイトルがフランス語で書かれているが、これは初版からの伝統で、ベートーヴェンの「公認の題名」と考えられる
  • 楽譜冒頭には「大ソナタ悲愴」というタイトルがフランス語で書かれているが、これは初版からの伝統で、ベートーヴェンの「公認の題名」と考えられる

「孤独でも、耳が聞こえにくくても...」

   話はかわりますが、今年はベートーヴェン・イヤーです。1770年生まれのベートーヴェンは今年が生誕250年という節目の年に当たり、世界各地でベートーヴェンをテーマとした音楽会が予定されていました。現在、全世界の半分以上の人々が外出制限を受け、特に人が密集するコンサートホールなどは営業再開の見通しがたっていません。せっかくのアニバーサリーイヤーですが、生演奏のベートーヴェンコンサートは大幅に少なくなりそうです。

   2020年の我々も、「外出自粛」で忍耐を強いられていますが、1798年頃、つまり28歳のベートーヴェンは、もっと大変でした。

   すでに10代から酒に溺れる父に代わってプロの音楽家として活躍していたベートーヴェンは、故郷ボンから音楽の都、帝都ウィーンにやってきてからもう6年が経っていました。着々とキャリアを積み重ねるベートーヴェンに降り掛かったのは、「難聴」の兆しでした。現代に残る遺髪を科学的に鑑定したところ、彼の体内には鉛が多くあったそうですから、そのあたりが耳の疾患の原因ではないか・・と言われていますが、難聴は、まずひどい耳鳴りとして症状があらわれました。音楽家として致命的という前に、日常生活に支障をきたしはじめたのです。人の声が、ひどい耳鳴りにかき消されて、聞こえないのです。

   ベートーヴェンは、実は情に厚い、ユーモアもある人で、決して「非社交的な人間」ではなかったのですが、耳が良いとされる音楽家が「すいません!あなたの声が聞こえないのですが!」と聞き返すのは恥だと思ったのでしょう、この時期からベートーヴェンは、しかめ面をし、人を寄せ付けない気難しい雰囲気をあえて作り出すようになります。そして、ピアニストとしても活躍していた彼は、次第に「孤独でも、耳が聞こえにくくても、楽譜が書ければできる」作曲に打ち込むようになります。

自分の新しい境地を開いた傑作ピアノソナタ

   そんな時期に作曲された曲の一つが、ピアノソナタ第8番「悲愴」Op.13です。ベートーヴェンのソナタは、後世の人間が題名を勝手につけたものが多く、「月光」や、「テンペスト」や「熱情」などがそれに当たりますが、「悲愴」だけは、自筆譜は失われているものの、初版に「悲愴大ソナタ」という題名が付けられているので、おそらくベートーヴェン認可の「公式の題名」と思って間違いないでしょう。

   音楽家として、悪くなる一方の耳の疾患を抱えて、「悲愴」な気分は当然だったでしょう。しかし、この時期の友人へ当てた手紙では、「この運命に打ち勝つ」とか、「自分の新しい音楽を作り上げて世に出したい」という決意表明のようなことが書かれています。

   そして、間違いなく、その成果として、「悲愴ソナタ」は作曲されました。ウィーンの師でもあるハイドンや、1度しか会ったことはないが、敬愛していたモーツァルトという先輩が作り上げたソナタという形式は踏襲しているものの、冒頭には、暗い情念を叩きつけるようなゆっくりな序奏部を備え、その後は、ほとばしるような激しいパッセージの連続である第1楽章、一転して、慰めのあふれる第2楽章、悲劇が次々と通過していくようなロンド形式の第3楽章、と形式も斬新なら、そのサウンドは「今まで誰も聞いたこともない新しいエネルギッシュな音楽」でした。

   出版された当時は、あまりにも斬新で、保守的な音楽家たちからは「でたらめな音楽」と評されていた、とベートーヴェンにも才能を評価された24歳年下のプラハ出身のピアニスト、イグナーツ・モシュレスが若き頃のエピソードとして書き残しています。彼自身は、禁止された「悲愴ソナタ」の楽譜を密かに手に入れ、これぞ新しい音楽、と興奮し、後にウィーンに出て、ベートーヴェンに会いにいくことになります。

   もちろん、ベートーヴェンが苦難を乗り越えて、自分の新しい境地を開いた傑作ピアノソナタ「悲愴」は、人々に広く評価され、現代でも、ピアノ音楽を代表する曲として世界中で演奏され、親しまれています。

   おそらく、ベートーヴェンは、進みゆく難聴から、人前から姿を消し、籠もって自分を見つめながら楽譜に書き記していったはずです。彼の若さと才能は、見事に苦難に打ち勝ち、この後、斬新な傑作を次々と生み出す時代がやってくるのです。

本田聖嗣

本田聖嗣プロフィール
私立麻布中学・高校卒業後、東京藝術大学器楽科ピアノ専攻を卒業。在学中にパリ国立高等音楽院ピアノ科に合格、ピアノ科・室内楽科の両方でプルミエ・プリを受賞して卒業し、フランス高等音楽家資格を取得。仏・伊などの数々の国際ピアノコンクールにおいて幾多の賞を受賞し、フランス及び東京を中心にソロ・室内楽の両面で活動を開始する。オクタヴィアレコードより発売した2枚目のCDは「レコード芸術」誌にて準特選盤を獲得。演奏活動以外でも、ドラマ・映画などの音楽の作曲・演奏を担当したり、NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」や、インターネットクラシックラジオ「OTTAVA」のプレゼンターを務めるほか、テレビにも多数出演している。日本演奏連盟会員。