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若冲が「国宝画家」に大出世 北斎や広重を追い越した理由

   江戸時代の画家、伊藤若冲(じゃくちゅう、1716~1800)の代表作「動植綵絵」(どうしょくさいえ)がこのほど、国の文化審議会の答申で国宝になることが決まった。様々な植物,鳥,昆虫,魚貝などが生き生きと描かれた30幅に及ぶ花鳥図の大作だ。「わが国の花鳥画の到達点」とされた。

   若冲といえば、今や日本の画家ではダントツの人気。展覧会は常に長蛇の列になる。しかし、ちょっと前まではその名を知る人も少なかった。どうして短期間で「国宝画家」にまで大出世したのか。

  • 2000年に若冲展が行われた京都国立博物館
    2000年に若冲展が行われた京都国立博物館
  • 2000年に若冲展が行われた京都国立博物館

5時間20分の入館待ち

   「こんな絵かきが日本にいた」――2000年に京都国立博物館で催された若冲展には、今では考えられないようなキャッチが付いていた。当時はまだ、若冲がそれほど著名な画家ではなかったことがわかる。企画した同館関係者が心配していた通り、最初のころ会場はガラガラだったという。しかし、後半にかけて次第に評判が広がり、最終的には10万人近くが入場した。

   この展覧会が、若冲人気のスプリングボードとなった。その後、06年から07年にかけて東京国立博物館など4館で開催した巡回展は約82万人を集めた。12年にはワシントンのナショナルギャラリーで「Colorful Realm: Japanese Bird-and-Flower Paintings by It? Jakuch? 」展も開かれるなど海外でも注目度が高まる。16年に東京都美術館で開かれた「生誕300年記念 若冲展」は、最長5時間20分の入館待ちとなった。

   驚くほど細密な描写力と絢爛な色調。ネット時代になり、視覚に強く訴える若冲の作品は漫画やアニメ好きの若い世代にも幅広く受け入れられることになった。

日米の二人が「再評価」に貢献

   若冲は京都生まれ。生家は錦小路で青物問屋を営み、若冲も家業を継いだが、40歳ごろに引退。その後は好きな画業にいそしんだといわれる。当時も人気が高かったようだが、画壇の本流ではなく、やがて一般にはほとんど忘れられていた。

   「再発見」には二人の人物が大きく関わっている。一人は米国の実業家で美術コレクターのジョー・D・プライス (1929~)さん。1953年にニューヨークの古美術店で若冲の作品「葡萄図」に出会い、独自に若冲コレクションを始める。

   もう一人は、美術史家の東大名誉教授、辻惟雄(1932~)さん。1970年に出版した『奇想の系譜』(美術出版社)で若冲ら江戸時代の特異な画家6人を「奇想の画家たち」として取り上げた。この本によって、一部の熱心な美術ファンの間では若冲の存在が知られるようになった。

   コレクターとして注目したのがプライスさん、続いて辻さんの研究によって若冲の学術的評価が固まったということになる。しかし一般に知られるまでにはさらに時間を要した。

   二人は早くから交流があり、長年親交を深めていた。2013年に仙台市博物館、岩手県立美術館、福島県立美術館で東日本大震災復興支援特別展「若冲が来てくれました―プライスコレクション 江戸絵画の美と生命―」が開かれたが、これは東北大で教えたこともある辻さんがプライスさんに直接頼んで実現したものだという。

独自のスーパーテクニック

   日本には1200件近い国宝があるが、そのうち絵画は160件ほど。安土桃山時代以降の近世作品は30件ほどしかない。「風神雷神図屏風」(俵屋宗達)、「洛中洛外図屏風」(狩野永徳)、「松林図屏風」(長谷川等伯)など、いずれも日本絵画史を代表するスーパースターたちの作品だ。そこに、つい20年ほど前までは「こんな絵かきが日本にいた」といわれる程度の知名度しかなかった若冲がランクインすることになった。北斎や広重などの浮世絵はまだ国宝になっていない。

   若冲作品の特色については近年、科学の目でも分析されている。一つは画料。『文化財分析』(共立出版)によると、「動植綵絵」については当時、日本に輸入され始めた「プルシャンブル―」という青色の材料を早々と使っていることがわかった。若冲が新しい画材について関心を持ち、研究熱心で、意欲的に入手していたことがうかがえる。

   もう一つは、並外れて丹念な描写力。「動植綵絵」では、鶏や孔雀、鳳凰など鳥の羽根を美しく透けて見える金色で描いているが、これまでは下層に金粉を溶いたものを塗り、その上に白色の彩色をしていると理解されていた。ところが分析によると、金を一切使わずに金色と認識させる特殊技法を用いていたことがわかった。若冲の超マニアックな作品は、独自のスーパーテクニックによってはじめて可能になっていた。

「献納」「献上」「御買上げ」で御物に

   国の文化審議会は2021年7月16日、「動植綵絵」のほか、狩野永徳の「唐獅子図屏風(びょうぶ)」や鎌倉時代の「蒙古襲来絵詞(えことば)」など5点を国宝に指定するよう文部科学相に答申した。いずれも、皇室に受け継がれていた作品だ。現在は皇居内にある宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵されている。

   文化財の世界では、重要文化財、国宝という順にランクが上がるが、別枠に皇室ゆかりの「御物」(ぎょぶつ)と呼ばれる作品群がある。

   『博物館と文化財の危機』(人文書院)によると、明治になって文化財や美術や歴史といった固有の「伝統文化」が「一等国」には不可欠、との認識が、欧米列強を視察する中で政治家や学者の中に広まった。

   西欧のルーブルやエルミタージュ美術館は、王室の私的なコレクションをベースにしている。ところが日本では1872年の宝物調査で、正倉院の献納宝物以外にはまとまった皇室の至宝がないことが明らかになり、明治政府は収集を急いだ。具体的には「献納」や「御買上げ」という形で収集された。「動植綵絵」は若冲と縁が深かった京都・相国寺から明治期に献納された作品だ。


   これらの美術工芸品は「御物」、すなわち皇室の私有財産となっていた。しかし、その多くは平成になってから国に寄贈され、国有財産に様変わり。宮内庁管理となって三の丸尚蔵館に収蔵されてきた。

   「御物」は上記の経緯から、長年、国宝や文化財指定の対象外とされてきた。しかし、2018年、宮内庁の有識者懇談会が「貴重な作品の価値を分かりやすく示すべきだ」と提言したことが、今回の国宝推挙につながった。

   国有財産に移管された「御物」は数千点あるという。今後さらに国宝になるケースが出てくることになりそうだ。