邪馬台国の王宮なのか 東西に並ぶ建物跡の衝撃

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<テレビウォッチ>奈良・桜井市の纒向(まきむく)遺跡がいま、古代史研究者の注目を集めている。長年の邪馬台国論争の行方を左右する? となっては、放ってはおけない。

   現地は住宅地で、全体は東西2キロ、南北1.5キロといわれるが、今2009年2月からの発掘ではまだ、空き地の一郭を手がけたにすぎない。ところが、3世紀の地層からとんでもないものが立ち現れてきた。

「広域な政治連合の時代」

   祭祀用とみられる木製仮面(日本最古)、高杯、多数の船のミニチュア、多数の土器の破片などが出土。建物の柱跡とみられる大小300もの穴。さらに9月には、形の違う大きな柱穴45が、約150畳分の広さに碁盤の目のようにみつかった。

   これらの柱穴から、4つの建物が東西に方位をとって並んでいた跡と判明。いちばん大きな建物は、推定高さ10メートル、幅19メートルと国内の遺跡でも最大級だ。建物を規則正しく並べる、いわゆる方位をとるのは7世紀ころからといわれていたのだが、それよりはるかに古い。

   また驚いたことに、出土した土器の破片が、九州から関東にいたる各地から持ち込まれたものであることがわかり、ここが物流の拠点であった可能性をうかがわせる。また日本では自生していないベニバナ(染料)、韓式土器もあった。近くには箸墓古墳があり、古代の水路跡もみつかっている。

   今回見つかった建物が、祭祀や政治権力の拠点だとなれば、だれもが「邪馬台国」と「卑弥呼」を思い浮かべるのは当然だろう。大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長は、「邪馬台国・近畿説の欠陥は、王宮とみられる建物がみつかっていなかったこと。それが見つかったのかもしれない」という。

   「吉野ヶ里遺跡とどこが違うのか」と国谷裕子。白石館長は、「吉野ヶ里の建物は向きがバラバラ、直線的に並んでいない。また吉野ヶ里には堀があったが、纒向にはない。もう戦いの時代が終わって、広域な政治連合の時代だったことをうかがわせる」という。

   建物が方位に沿って並んでいるのは、一種の都市計画だから、権力があった証拠。ただ、飛鳥、藤原、平城宮はいずれも、中国式に南北に方位をとっているのに対し、纒向ではそれが東西になっている。これが何を意味するのか。

「卑弥呼の居所だったと考えていい」

   「魏志倭人伝」には、「女王卑弥呼は30の国を従えて君臨」「鬼道(祭祀)で民を支配」「夫はおらず、弟の助けで国を治める」などとある。しかし、場所に関する記述は実際にどこを指すのかはっきりしない。それが、九州説、近畿説の論争のもとだった。

   今回みつかった柱穴は、建物の中心にもあった。巨大な建物で中心に柱があるのは珍しい。古代建築研究の黒田龍二・神戸大準教授は、類似の建物として出雲大社の本殿をあげた。中心の柱からカベがのびていて、奥に神座がある。普通の人は近づけないような造りだ。「特別の神聖な空間」だという。

   この建物もそうだとすると、魏志倭人伝にある「卑弥呼の姿を見たものは少ない」「男子ひとりが給仕しており、言葉を取り次ぐ」という記述とも符合する。同志社大の辰巳和弘教授は「卑弥呼の居所だったと考えていい」とまでいう。

   もし卑弥呼の館だったとしても、果たしてその後の大和朝廷に連続するものなのか。古代史、考古学の面白さは謎解きの面白さ。さらなる発掘の成果が待たれるところだ。金も時間もかかる。仕分け人の対象にならないように祈ろう。

ヤンヤン

*NHKクローズアップ現代(2009年11月16日放送)
文   ヤンヤン
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