「にわか雨と隣家の洗濯物」「誰かの視聴率上がらない番組」他人の不幸はやっぱりうれしい
長時間パソコンに向かって腰が痛くなったので、伸びをしよう! ついでに(こちらが本音)一服するかと・・・自宅作業中、小さな猫の額のベランダに出て伸びをしながらタバコを吸っていた。すると、突然バケツをひっくりかえしたようなにわか雨。あぁ、もうこんな季節なのか。遠くに美しい青空が広がるのに我が家周辺はどしゃぶりという久しぶりのゲリラ豪雨だ。
つい先ほどまで青空だったのに、なんていじわるな天気!と思いながらも、面倒になって洗濯するのをサボった自分を褒めてやりたくなった。雨の先に目をやると洗濯物を干しているベランダがチラホラ見える。とてもじゃないが洗い直さないといけないぐらいに雨に打たれている洗濯もの。運が悪かったわね~と近隣住民を半分憐れみながら、半分ヒヒっと悪魔の私はほくそ笑んだ。風にそよいで初夏の主役のような顔をしていた他人の洗濯ものが、突然の雨でボロ雑巾のように悲しげな姿になり果てていると、正しい選択をした己を正当化したくなるのだ。
某大御所作家のほくそ笑み
その時、ある会議で某大御所作家の先輩が発した言葉を思い出した。
「いやぁ~、○○(番組タイトル)苦戦してますね!鳴り物入りで始まったからには**局も後に引けないし。でも、あそこまで数字が悪いとちょっとかわいそうだけどね~」
そう、この感覚。自分が関わらなかった番組の成績が悪いとちょっと嬉しくなる感じ。
人の不幸は蜜の味とはよく言ったもので、大御所作家氏も同室していたプロデューサーやディレクターもニヤっと笑った。これって、にわか雨でビショビショになっている隣家の洗濯ものを見て、自分は洗濯ものを干さなくてよかった! と思う気持ちと大差ないような気がする。そして、誰かの失敗や不運を批判するだけ批判してほくそ笑み、自分のことは棚に上げるネット環境も同じなのではないかと。
ネット関連のメディアが次々と登場する中で、「テレビはもう死んだ」と誰もが言いたくなるが、テレビの悪口を言っている舞台は、結局、匿名性が強いネット上。他人の動向ばかりを気にしながらも、テレビに降っている雨はネットには降らないかのように平然としている発言者。人間が持っている「あまのじゃく」という本質がどうしても浮き彫りになってしまう。
「蜜の味」もそればっかりだと…
しばらく外を眺めていると、ドシャブリに住人が出てきてバタバタと慌てて洗濯ものを取り込んだ。素直に「あぁ、よかった!」と少々安堵した。これもテレビ番組のようだ。
どん底からなんとか再起するシナリオをどこか人は望んでいる。蜜の味がする他人の不幸でも、最後までずっと不運続きだと、不幸の甘さで見ている方は胸やけしてしまう。無意識に求められる救いに対して、制作側もココですよ! とツボなポイントに成功例やハッピーエンドを盛り込み、番組は展開される。
話を他番組の批評をした某氏に戻そう。同業者の苦難をほくそ笑むばかりではさすがに社会人としての人格を疑われる。氏は慌ててこう付けくわえた。
「苦しんでいるのはボクらだけじゃない!って思いますよね~。彼らはもっと大変なんだから、こっちも気を引き締めていかないとすぐに追いつかれますよ」
タバコを吸いながらぼんやりと思う、にわか雨に濡れる他人の洗濯ものと番組作り。 そうこうしていると、にわか雨はまるでウソのようにすっかり止み、何事もなかったかのように再び青空が広がった。
モジョっこ